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      <title><![CDATA[【BAN　コンポラ】 　日本 世界の美・旅・写真・アートもっと 再発見]]></title>
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      <description><![CDATA[日本 世界の美・旅行・アート・写真・カルチャー　by　BAN　コンポラ ]]></description>
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         <title>アンリ・ド・トゥルーズ＝ロートレック　画家</title>
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         <description><![CDATA[<a href="http://ban.compora.com/images/20100907234108.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20100907234108_m.jpg" width="151" height="200" alt="アンリ・ド・トゥルーズ＝ロートレック　画家" border="0" /></a>

アンリ・ド・トゥルーズ＝ロートレック（ロトレック）（Henri de Toulouse-Lautrec, 1864年11月24日 - 1901年9月9日）は、19世紀のフランスの画家。日本では慣習的に「ロートレック」で呼ばれるが、正しくは「トゥルーズ＝ロートレック（ロトレック）」でひとつの姓である。 


<strong>生涯</strong> 
南仏のアルビで生まれる。ロートレックの生家は、フランスの名家であり、伯爵家である。祖先は9世紀のシャルルマーニュ時代までさかのぼることができる。 

父のアルフォンス伯は、奇妙な服装をするなど、変わり者で有名であった。 


<a href="http://ban.compora.com/images/20100907234351.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20100907234351_m.jpg" width="150" height="200" alt="lautrec-04.jpg" border="0" /></a>

 ロートレックは、幼少期には「小さな宝石（プティ・ビジュー）」と呼ばれて家中から可愛がられて育ったが、13歳の時に左の大腿骨を、14歳の時に右の大腿骨をそれぞれ骨折したために脚の発育が停止し、成人した時の身長は152cmに過ぎなかった。 

胴体の発育は正常だったが、脚の大きさだけは子供のままの状態であり、現代の医学者はこの症状を骨粗鬆症や骨形成不全症といった遺伝子疾患と考えている。 

脚の不自由だった彼は、しばしば疾走する馬の絵を描いている。 


<a href="http://ban.compora.com/images/20100907234440.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20100907234440_m.jpg" width="200" height="166" alt="アンリ・ド・トゥルーズ＝ロートレック　画家" border="0" /></a>

1882年にパリに出て、当初はレオン・ボナの画塾で学んだが、まもなくして画塾が閉鎖されたため、モンマルトルにあったフェルナン・コルモンの画塾に移り、以後は晩年まで同地で活動するようになった。 

なお、コルモンの画塾ではファン・ゴッホ、エミール・ベルナールらと出会っている。 

絵画モデルであった、マリー＝クレマンチーヌ・ヴァラドン（後のシュザンヌ・ヴァラドン）のデッサンの才能を高く評価し、彼女が画家となるきっかけを作った。彼女をシュザンヌと呼び始めたのもロートレックである。 


<a href="http://ban.compora.com/images/20100907234511.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20100907234511_m.jpg" width="139" height="200" alt="アンリ・ド・トゥルーズ＝ロートレック　画家" border="0" /></a>

 画家自身が身体障害者として差別を受けていたこともあってか、娼婦、踊り子のような夜の世界の女たちに共感。パリの「ムーラン・ルージュ（赤い風車）」をはじめとしたダンスホール、酒場などに入り浸り、デカダンな生活を送った。そして、彼女らを愛情のこもった筆致で描いた。 

作品には「ムーラン・ルージュ」などのポスターの名作も多く、ポスターを芸術の域にまで高めた功績でも美術史上に特筆されるべき画家であり、「小さき男（プティ・トンム）、偉大なる芸術家（グラン・タルテイスト）」と形容される。 

かれのポスターやリトグラフは日本美術から強い影響を受けている。 

1901年8月20日にパリを発ち、母のもとへ行き、同年9月9日、マルロメで母に看取られ脳出血で死去した。37歳。 

なお、ロートレックを扱った映画としては1952年のアメリカ映画『赤い風車』、1999年のフランス映画『葡萄酒色の人生』などがある。 


<a href="http://ban.compora.com/images/20100907234550.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20100907234550_m.jpg" width="122" height="200" alt="アンリ・ド・トゥルーズ＝ロートレック　画家" border="0" /></a>


<a href="http://ban.compora.com/images/20100907234613.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20100907234613_m.jpg" width="121" height="200" alt="アンリ・ド・トゥルーズ＝ロートレック　画家" border="0" /></a>


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         <pubDate>Wed, 08 Sep 2010 00:07:19 +0900</pubDate>
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      </item>
      
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         <title>ルチアーノ・パヴァロッティ　オペラ歌手</title>
         <link>http://ban.compora.com/?eid=35</link>
         <description><![CDATA[<a href="http://ban.compora.com/images/20100907182357.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20100907182357_m.jpg" width="135" height="200" alt="ルチアーノ・パヴァロッティ　オペラ歌手" border="0" /></a>

ルチアーノ・パヴァロッティ（Luciano Pavarotti、1935年10月12日 - 2007年9月6日）はイタリアのオペラ歌手。 

声域はテノール。「神に祝福された声」「キング・オブ・ハイC（二点ハの王者）」と評された豊麗な美声、申し分ない声量、明晰な発音、輝かしい高音が魅力の、20世紀後半を代表する最も偉大なオペラ歌手の1人。 

プラシド・ドミンゴ、ホセ・カレーラスと共に「三大テノール」として知られる。 


<a href="http://ban.compora.com/images/20100907182458.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20100907182458_m.jpg" width="144" height="200" alt="ルチアーノ・パヴァロッティ　オペラ歌手" border="0" /></a>

【経歴】

<strong>生い立ち</strong> 
イタリアのモデナ生まれ。父親はパン焼職人の傍ら、才能あるアマチュア・テノール歌手でもあった。同郷で同い歳の名ソプラノ歌手、ミレッラ・フレーニとは幼なじみの上、同じ乳母によって育てられた。師範学校を卒業後、声楽を学ぶ。 

<strong>初舞台 </strong>
1961年にレッジョ・エミーリアの声楽コンクールで優勝し、同年4月29日、同地の市立劇場で『ラ・ボエーム』のロドルフォ役を歌い、オペラの初舞台を踏んだ。この役はその後彼の十八番となり、1963年にはウィーン国立歌劇場とロンドンのロイヤル・オペラ・ハウス（コヴェント・ガーデン）に、1964年にはミラノ・スカラ座にそれぞれロドルフォを歌ってデビューを飾っている。1964年にはオペラ・アリア集をデッカ社に録音、レコード・デビューも果たす。


<a href="http://ban.compora.com/images/20100907182604.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20100907182604_m.jpg" width="135" height="200" alt="ルチアーノ・パヴァロッティ　オペラ歌手" border="0" /></a>

<strong>世界的名声</strong> 
1965年2月、マイアミでジョーン・サザーランドと『ランメルモールのルチア』に出演してアメリカにデビューした。1967年、サザーランドとその夫の指揮者リチャード・ボニングと共演のベッリーニ作曲「ベアトリーチェ・ディ・テンダ」全曲盤でオロンベッロを歌い、初めて歌劇全曲盤録音に参加（デッカ）。1968年、やはりロドルフォでニューヨークのメトロポリタン歌劇場にもデビュー。 

パヴァロッティが世界的名声を不動のものとしたのは1972年2月17日にメトロポリタン歌劇場でドニゼッティの『連隊の娘』に出演したときで、パヴァロッティはトニオ役のアリアでハイ-C（高い「ハ」音）を9回苦もなく歌ってのけ、聴衆を熱狂させたのである。輝かしい高音を持つリリック・テノールとして彼は名声を確立し、「キング・オブ・ハイC」という異名をとるに至った（このニックネームは彼が録音したアリア集の題名に由来する）。 


<a href="http://ban.compora.com/images/20100907182648.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20100907182648_m.jpg" width="200" height="135" alt="ルチアーノ・パヴァロッティ　オペラ歌手" border="0" /></a>

きらめく高音で一世を風靡する一方、パヴァロッティは軽やかな美しさと共に強い響きもそなえた声質を生かし、レパートリーの拡充を計画。1970年に録音でリッカルド（ヴェルディの『仮面舞踏会』）に挑戦したのを皮切りに、より劇的な歌唱を必要とされるスピント系諸役へと進出し、評価を得た。その後、声質が重く変化していく（このため高音の輝かしさには翳りがでた）につれスピント系の役を増やし、ヴェリズモ時代までの歌劇をレパートリーに加えている。 

パヴァロッティは完璧さを求めるあまりに、公演をキャンセルすることもしばしばあり、「キャンセルの王様」とまで揶揄されるようになっていた。有名なシカゴのリリックオペラでは、パヴァロッティは8年の間に41回の公演のうち実に26回をキャンセルし、このため激怒した同オペラの支配人から1989年に終身出入り禁止を言い渡された。 


<a href="http://ban.compora.com/images/20100907182720.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20100907182720_m.jpg" width="200" height="161" alt="ルチアーノ・パヴァロッティ　オペラ歌手" border="0" /></a>

<strong>幅広い活動</strong> 
パヴァロッティはしばしばテレビに出演して大衆的な名声を得た。1977年3月には、『ライブ・フロム・メト』という番組に初めて出演してロドルフォを歌い、それまでにテレビで放送されたオペラ上演中最大級の視聴者を魅了した。 

1990年代、パヴァロッティは野外コンサートをしばしば開き、多くの聴衆を集めたことでも知られる。ロンドンのハイド・パークで行われた最初のコンサートはテレビで放送され、公園の歴史上初のクラシック演奏会となり、15万人という記録的な人数の聴衆を動員した。1993年6月にはニューヨークのセントラル・パークの大庭園で行われたパヴァロッティの演奏会には50万人が集まり、テレビでもさらに数百万人がこれを視聴した。続いて9月にはパリのエッフェル塔の下でコンサートを開催、推定30万人を集めた。 

また、かつてのライバルであったドミンゴ、カレーラスとともに開いた「三大テノール」コンサートは広く知られている。演奏会のCDやビデオテープの売上げはプレスリーやローリング・ストーンズを超えている。2001年にパヴァロッティはケネディ・センター名誉賞を受けている。 

パヴァロッティは1997年にパリで事故死したイギリスのダイアナ妃と親しく、世界の地雷除去のための寄付もした。ダイアナ妃の葬儀で歌うよう依頼された時は、「非常に悲しくてとても歌うことはできない」と辞退した。 


<a href="http://ban.compora.com/images/20100907182757.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20100907182757_m.jpg" width="192" height="200" alt="ルチアーノ・パヴァロッティ　オペラ歌手" border="0" /></a>

<strong>引退</strong> 
2004年3月、69歳でニューヨークのメトロポリタン歌劇場において『トスカ』のカヴァラドッシ役を演じた。これを最後にオペラ上演からは引退。また同年より、世界中を巡る引退コンサート・ツアーを開始（東京からスタート）。 

2006年のトリノオリンピックの開会式では『トゥーランドット』の「誰も寝てはならぬ」を歌い、オリンピック開会式の掉尾に花を添えたが、これがパヴァロッティにとって人生最後のステージとなった。 


<strong>死去</strong> 
その後同年6月、膵臓がんが見つかり手術を受けたが、2007年9月6日、モデナの自宅にて腎不全により71歳で死去した。同年9月8日、モデナの大聖堂で葬儀が行われ、プローディイタリア首相、アナン前国連事務総長、ボノ（U2）やアンドレア・ボチェッリなどの著名人も参列し、市民ら約10万人も集まり弔意を表した。 


<a href="http://ban.compora.com/images/20100907182845.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20100907182845_m.jpg" width="164" height="200" alt="ルチアーノ・パヴァロッティ　オペラ歌手" border="0" /></a>

【レパートリー】

パヴァロッティは元来、リリコ・レッジェーロ（叙情的で軽やかな表現に適した声質）と呼ばれる声質のテノールである。先述のようにデビュー後名声を築いていった1960年代は、高音が最大限に映えるドニゼッティ、ベッリーニなどのいわゆる“ベル・カント・オペラ”がレパートリーの中核をなし、これらの作品の上演、録音により、パヴァロッティは世界有数のテノールという評価を確立した。当時のパヴァロッティのレパートリーにおいて、ヴェルディなどベル・カント以降の作品も高音が特に必要とされる役が多くを占めていた。 

やがて1970年代以降、パヴァロッティは劇的なスピント系の役に進出していく。一例としてヴェルディ作品を見ると、パヴァロッティがヴェルディ作品で歌った役は高音を必要とする3つの役だったが、前記のリッカルドや、1975年にはマンリーコ（『トロヴァトーレ』）、1981年にはラダメス（『アイーダ』）にそれぞれ挑戦、1991年には演奏会形式で、古今の歌劇の中でも特に重厚な歌唱を要求される『オテロ』（同名作品）を歌い、1992年に歌った『ドン・カルロ』（同名作品）までの挑戦を経て、彼の歌ったヴェルディ諸役は13に増えた（そのうち12のヴェルディ作品については録音している）。 


<a href="http://ban.compora.com/images/20100907182928.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20100907182928_m.jpg" width="173" height="200" alt="ルチアーノ・パヴァロッティ　オペラ歌手" border="0" /></a>

パヴァロッティがスピント系の役をレパートリーに加えていくに当たって、元来スピント系の声質でないことに由来する劇性の不足を補う意図から、アクセントの強調などを歌唱に取り入れていく様になった。このある種の誇張が後輩歌手たちにも影響があったといわれており、賛否のあるところである。 

録音では初録音以来デッカ・レコードと長く信頼関係を築いており、デッカ・レコードの歌劇録音には欠かせない看板歌手として親しまれ、レパートリーの殆んどを同社に録音している。 


<a href="http://ban.compora.com/images/20100907183011.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20100907183011_m.jpg" width="132" height="200" alt="ルチアーノ・パヴァロッティ　オペラ歌手" border="0" /></a>

【家族】

1961年に結婚したアドゥア夫人との間に娘をもうけたが後に離婚、その後双子（1人だけが無事生まれてアリーチェと名づけられた）を身籠もったパヴァロッティのアシスタントと結婚した。 


【エピソード】

「パヴァロッティは楽譜が読めない」というまことしやかな噂があったが、本人は2005年9月12日のBBCインタビューの中で「オーケストラ総譜はほとんど読めないけど、テナーとピアノ（伴奏）のパート譜なら完璧に読めるよ」と語っていた。 

地元モデナに本拠を置くフェラーリの限定車「F40」を購入する際に、すでに購入予約は閉め切られていたにもかかわらず、妻がフェラーリに電話し購入することができたが、当時肥満体に近い体型であったために「納車しても車内に入れないのではないか」と言われた。 

広告にはあまり出演することがなかったが、1996年には日本航空のビジネスクラスのテレビCMにホセ・カレーラスとプラシド・ドミンゴとともに出演した。


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         <pubDate>Tue, 07 Sep 2010 18:30:44 +0900</pubDate>
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      </item>
      
      <item>
         <title>J.D.サリンジャー　小説家</title>
         <link>http://ban.compora.com/?eid=34</link>
         <description><![CDATA[
<a href="http://ban.compora.com/images/20100406155214.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20100406155214_m.jpg" width="200" height="192" alt="J.D.サリンジャー　小説家" border="0" /></a>

ジェローム・デイヴィッド・サリンジャー（Jerome David Salinger、1919年1月1日 - 2010年1月27日）は、アメリカ合衆国の小説家。ニューヨーク市マンハッタン生まれ。小説『ライ麦畑でつかまえて』で知られている。父はポーランド系ユダヤ人、母はスコットランド=アイルランド系だがユダヤ教に改宗した。 

ジェロームは、シーモア、ゾーイー他7人兄弟と両親からなるグラース家にまつわる物語の連作を書き続けると発言していたが、1965年に『ハプワース16、1924年』を発表して以降は完全に沈黙し、晩年はアメリカ、ニューハンプシャー州に隠遁して40年以上作品を発表することはなかった。生涯に発表した作品の多くもグラース家やホールデン・コールフィールドにまつわるものが多い。 

自らの原作（『コネティカットのひょこひょこおじさん』）に基づくハリウッド映画『愚かなり我が心』（1949年）の出来映えに失望した事から映画嫌いになった。そのため、『ライ麦畑でつかまえて』の映像化を許さなかった。村上春樹が『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の訳者解説を付けることも許可しなかったなど、さまざまな謎・伝説に包まれた人物である。 

『フラニーとゾーイー』頃から作品の中には東洋思想、禅の影響が色濃く、またジェローム自身もヨーガやホメオパシーに傾倒するなど全体的に神秘主義的傾向が強まった。そのため後期の作品では読者層が絞られていく一方、おりしもベトナム戦争などの時局も相俟ってヒッピーなどカウンターカルチャー寄りの人々の支持も少なからず集めるに至った。 


<a href="http://ban.compora.com/images/20100406155302.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20100406155302_m.jpg" width="200" height="160" alt="J.D.サリンジャー　小説家" border="0" /></a>

<span style="font-size:medium;"><strong>生涯</strong></span>

<strong>幼少期から作家になるまで</strong>

1919年1月1日、ジェロームはニューヨークで生まれる。父はポーランド系ユダヤ人の実業家・ソロモン、母はスコットランド=アイルランド系のカトリック教徒の娘・マリー（彼女は結婚後夫と同じユダヤ教に改宗、名もユダヤ風にミリアムと改めている）。また8歳上の姉・ドリスがいる。父は食肉やチーズを販売する貿易会社の経営をしており、一家は裕福だったといわれる。 

1932年にマークバーニ校（ボーディングスクール）に入学。この頃は演劇に関心を持っており、入学面接では「（興味があるのは）演劇と熱帯魚」と答えている。しかし学業不振を理由に1年で退学処分となってしまう。その後ペンシルベニア州のヴァリー・フォージ・ミリタリー・アカデミーに入学し卒業まで過ごす（この学校は「ろくでもない子供を叩き直す」という厳しい教育方針だった。また田舎の保守的な学校でありユダヤ人に対する差別意識があったようだが卒業まで無事過ごす）。 


<a href="http://ban.compora.com/images/20100406155556.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20100406155556_m.jpg" width="155" height="200" alt="J.D.サリンジャー　小説家" border="0" /></a>

卒業後、家業を継ぐため親戚のいるヨーロッパに渡る。帰国後は様々な大学を転々とするが、1939年にコロンビア大学の聴講生となり、ホイット・バーネット（トルーマン・カポーティやジョゼフ・ヘラー、ノーマン・メイラーなど数々の新人作家の作品を自らが創刊した文芸誌『ストーリー』で最初に掲載し世に紹介したことで知られる）の創作講座に参加する。バーネットの授業に参加したことはジェロームに大きな影響を与えたようであり、ジェロームの処女作『若者たち』（The Young Folks）が初めて掲載された雑誌は『ストーリー』（1940年3、4月号）である。後日ジェロームは、わずか25ドルではあったが生まれて初めての原稿料を受け取った。また、これがきっかけでジェロームの小説は他の文芸紙にも掲載されるようになる。 

1941年に『マディソン街のはずれの小さな反抗』（Slight Rebelion off Madison が『ザ・ニューヨーカー』に掲載が決まる。12月中に掲載される予定となったが太平洋戦争の開戦による影響で作品の掲載は無期延期となってしまう（結局5年後の1946年に掲載される）。ちなみにこの短編は、ジェロームの分身とでもいうべきホールデン・コールフィールドが初めて登場した作品である。 



<a href="http://ban.compora.com/images/20100406155637.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20100406155637_m.jpg" width="130" height="200" alt="J.D.サリンジャー　小説家" border="0" /></a>

<strong>軍歴</strong>

1942年、ジェロームは太平洋戦争の勃発を機に自ら志願してアメリカ軍に入隊する。2年間の駐屯地での訓練を経て1944年3月にイギリスに派遣され6月にノルマンディー上陸作戦に一兵士として参加し激戦地の一つユタ・ビーチに上陸する。フランスではジェロームは情報部隊に所属する。8月、パリの解放後新聞特派員としてパリを訪れたヘミングウェイを訪問する。『最後の休暇の最後の日』（The Last Day of the Furlough）を読んだヘミングウェイはジェロームの才能を認めて賞賛したという。しかしジェロームはヘミングウェイのタフな精神とは相容れなかったようである（『ライ麦畑でつかまえて』のホールデンの台詞を参照）。しかしドイツとの激しい戦闘によってサリンジャーも精神的に追い込まれていき、ドイツ降伏後は神経衰弱と診断され、ニュルンベルクの陸軍総合病院に入院する。入院中にドイツ人女性医師シルヴィア・ヴェルターと知り合い、結婚する。結婚後の1945年11月に軍を除隊になる。 



<a href="http://ban.compora.com/images/20100406155722.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20100406155722_m.jpg" width="163" height="200" alt="J.D.サリンジャー　小説家" border="0" /></a>

<strong>『ライ麦畑でつかまえて』</strong>

12月に『ライ麦畑でつかまえて』の原型となる作品『僕は狂ってる』（I'm Crazy）が雑誌『コリアーズ』に掲載される。1946年、シルヴィアとの結婚生活は終わりを迎えジェロームの生活も大きく変化した。ヤッピーのような生活を送り、またニューヨークのボヘミアンとも多く交流を持つようになる。 

1949年頃、コネチカット州ウェストポートに家を借りジェロームは執筆生活に専念するようになる。この頃から『ライ麦畑でつかまえて』の執筆を開始した。1950年1月、『コネチカットのひょこひょこおじさん』（Uncle Wiggily in Conecticut ナイン・ストーリーズ収録作品）を元に作られた映画愚かなり我が心（My Foolish Heart）をハリウッドのサミュエル・ゴールドウィンが全米公開するが映画の評判は芳しくなく、ジェロームもこの映画を見て激怒する（それ以来ジェロームは自分の作品の映画化を許可することはなかった）。1950年秋、遂に『ライ麦畑でつかまえて』が完成する。当初ハーコードプレス社から作品は出版される予定だったが、「狂人を主人公にした作品は出版しない」と出版を拒否。結局作品はリトル・ブラウン社から出版されることに決まる。『ライ麦畑でつかまえて』は大きな反響（詳しくはライ麦畑でつかまえてを参照）を呼んだ。文壇からは賛否両論があり、また保守層やピューリタン的な道徳的思想を持った人からは激しいバッシングを受けた。しかしホールデンと同世代の若者からは圧倒的な人気を誇り、2007年までに全世界で6000万部以上の売り上げを記録。現在でも毎年50万部が売れているという。 

しかし、『ライ麦畑でつかまえて』の成功によって、ジェロームがニューヨークで静かな生活を送ることは次第に難しくなっていった。結果、ジェロームはニューハンプシャー州はコネチカット河のほとり、コーニッシュの土地を購入する。イノセンスに憧れを抱くようになったジェロームはそこで原始的な生活を送り（家にはライフラインがなかったらしい）、地元の高校生達と親しくなり、交流を深めることになる。しかし、その関係も長くは続かず、ジェロームと親しくしていた少女の一人が高校生向け記事を書くことを条件にしたインタビューの内容をスクープとして地元の新聞に載せてしまう。このことに激怒したジェロームは、社会から孤立した生活を送るようになり、高校生達との縁を切ってしまう。 


<a href="http://ban.compora.com/images/20100406155819.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20100406155819_m.jpg" width="151" height="200" alt="J.D.サリンジャー　小説家" border="0" /></a>

<strong>その後</strong>

1955年にラドクリフ大学に在学中のクレア・ダグラスと結婚。一男一女を授かるも、1967年に離婚する。孤立した生活を送るようになったジェロームは、次第に発表する作品数を減らしていく。1953年に短編集『ナイン・ストーリーズ』を、1961年には『フラニーとゾーイー』を、1965年に『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』を発表するが、1965年に『ハプワース16、1924年』を発表したのを最後に一冊の新刊も発表することはなかった。 

1972年、当時18歳だったジョイス・メイナードと短期間同棲。1990年頃からは約50歳年下の看護師と結婚生活を送っていたという。 

晩年のジェロームは滅多に人前に出ることもなく、2メートルの塀で屋敷の回りを囲ませその中で生活をしていた。ジェロームは一度小説を書き始めると何時間も仕事に没頭し続けており、何冊もの作品を書き上げている、など様々な噂がなされた。 

沈黙を守り続けていたジェロームであったが、『ライ麦畑でつかまえて』の続編であるという『60 Years Later: Coming Through the Rye』がスウェーデンの出版社Nicotextから出版されると知り、その著者であるJ・D・カリフォルニアなる人物とNicotextとを相手取り、2009年6月1日に著作権侵害で提訴した。ジェロームは訴状において「続編はパロディではないし、原作に論評を加えたり、批評したりするものでもない。ただ不当な作品にすぎない」として、出版の差し止めを求めた。 

2010年1月27日、ニューハンプシャー州コーニッシュにある自宅にて老衰のため死去。 

長男のマット・サリンジャーは俳優になっている。 



<span style="font-size:medium;"><strong>評価</strong></span> 

サリンジャーは無垢なもの（イノセンス）に対する憧れが強い人であると言われる。サリンジャーの主人公達の多くは10代後半から20代の微妙な世代であり、例えば代表作『ライ麦畑でつかまえて』の主人公ホールデンは、大人社会に適応しようとする反面、子供時代にはなかった「インチキ」や「エゴ」に戸惑い、うまく自己を確立することができない。サリンジャーはその戸惑いを巧みに描くことのできる作家であると評価されている。また、『フラニーとゾーイー』では、妹フラニーの宗教（イエスなど）に対する曖昧な解釈から、神経衰弱に陥ってしまう。また、世の中の偽りにも見える慈善や慈愛、人の見栄に対する嫌悪に陥るが、それを否定することもエゴなのだということを兄ゾーイによって悟される。人間は『曖昧な解釈』によって『本質』を見失い、それによって偏った知識で言わば『頭でっかち』になりやすい。そんな誰しもが持っている偏見やこうであって欲しいという願望を崩されたとき、人間は嫌悪感を覚え、自らの扉を閉ざす。そんな人間の弱さや繊細さを描いた作品である。



<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4770022476?ie=UTF8&tag=galletokyocom-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4770022476" target="_blank"><img src="http://ban.compora.com/images/20100406155946.jpg" width="150" height="184" alt="J.D.サリンジャー　小説家" border="0" /></a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=galletokyocom-22&l=as2&o=9&a=4770022476" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />


<span style="font-size:medium;"><strong>作品</strong></span>

<strong>The Catcher in the Rye, 1951</strong>
・　『危険な年齢』 （初訳は橋本福夫訳、ダヴィッド社、1952年）
・　<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4560070512?ie=UTF8&tag=galletokyocom-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4560070512" target="_blank">『ライ麦畑でつかまえて』 （野崎孝訳 白水社、のち白水Uブックス）</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=galletokyocom-22&l=as2&o=9&a=4560070512" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />
・　<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4560090009?ie=UTF8&tag=galletokyocom-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4560090009">『キャッチャー・イン・ザ・ライ』 （村上春樹訳 白水社 2003年、新書版、2006年）</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=galletokyocom-22&l=as2&o=9&a=4560090009" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />


<strong>Nine Stories, 1953</strong>
・　<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4102057013?ie=UTF8&tag=galletokyocom-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4102057013" target="_blank">『ナイン・ストーリーズ』（野崎孝訳 新潮文庫、『九つの物語』中川敏訳、集英社文庫、新版2007年）</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=galletokyocom-22&l=as2&o=9&a=4102057013" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />
・　2008年に柴田元幸訳がヴィレッジブックスで刊行された。
・　<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4863320906?ie=UTF8&tag=galletokyocom-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4863320906">季刊雑誌『モンキービジネス』vol.3</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=galletokyocom-22&l=as2&o=9&a=4863320906" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />と、<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4863321023?ie=UTF8&tag=galletokyocom-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4863321023">vol3.5（解説号）［サリンジャー号 ナイン・ストーリーズ （2008Fall）］</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=galletokyocom-22&l=as2&o=9&a=4863321023" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />


<strong>Franny and Zooey, 1961</strong>
・　<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4102057021?ie=UTF8&tag=galletokyocom-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4102057021" target="_blank">『フラニーとゾーイー』（野崎孝訳、新潮文庫、改版1991年） </a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=galletokyocom-22&l=as2&o=9&a=4102057021" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />


<strong>Raise High the Roof Beam, Carpenters, and Seymour: An Introduction Stories , 1963</strong>
・　<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/410205703X?ie=UTF8&tag=galletokyocom-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=410205703X" target="_blank">『大工よ、屋根の梁を高く上げよ シーモア-序章-』（野崎孝・井上謙治訳、河出書房新社、のち新潮文庫、改版2004年） </a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=galletokyocom-22&l=as2&o=9&a=410205703X" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />


<strong>Hapworth 16, 1924, 1965</strong>　今日まで公表されている最後の作品 
・　『ハプワース16、一九二四』
「ニューヨーカー誌」に掲載された中編小説。 
アメリカでは今日まで単行本化されていない。数年前には実現しかがったが、事前に書評家 ミチコ・カクタニによる酷評が雑誌に掲載され、これにショックを受けたサリンジャー自らが企画を取り下げたと言われている。 

同書の日本語訳は入手可能で、サリンジャー選集〈別巻〉にある。（原田敬一訳、荒地出版社、1978年、新版1993年）

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         <pubDate>Tue, 06 Apr 2010 16:02:44 +0900</pubDate>
         <guid>http://ban.compora.com/?eid=34</guid>
      </item>
      
      <item>
         <title>柳家 小三治 （やなぎや こさんじ）　落語家</title>
         <link>http://ban.compora.com/?eid=33</link>
         <description><![CDATA[<a href="http://ban.compora.com/images/20091123212806.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20091123212806_m.jpg" width="200" height="200" alt="kosanji-3.jpg" border="0" /></a>


柳家 小三治（やなぎや こさんじ）は落語家の名跡である。当代は10代目。

小三治の名跡は廃業した者もいれば柳派の総帥になった者もいるため、「五厘（寄席の事務員）にも小さんにもなれる名跡」と言われる。名跡のランクは長らく中堅であったが当代の活動が評価され、上昇傾向にある。

初代柳家小三治 - 後の3代目柳家小さん。本名、豊嶋銀之助。
2代目柳家小三治 - 後の2代目談洲楼燕枝。本名、町田銀次郎。
3代目柳家小三治 - 後の3代目古今亭今輔。本名、村田政次郎。
4代目柳家小三治 - 後の2代目柳家つばめ。本名、浦出祭次郎。
5代目柳家小三治 - 後の4代目柳家小さん。本名、平山菊松。
6代目柳家小三治 - （1896年8月19日 - 大正半ば頃）本名、内田留次郎。1914、1915年に3代目柳家小さん門下で柳家小志んを名乗り1917年2月に柳家小きんを経て、翌年3月に小三治となった。将来の名人の期待もされたが酒に溺れて早死した。俗に「留っ子」や「坊やの小三治」と言われた。
7代目柳家小三治 - 後の7代目林家正蔵。本名、海老名竹三郎。
8代目柳家小三治 - （1902年6月30日 - 1977年11月27日）本名、高橋栄次郎。東京日本橋の生まれ、母は日本橋で有名だった女髪結いであった。自宅の近所に4代目橘家圓喬が住んでいたのでよく子供の頃から可愛がられたという。最初3代目柳家小さんの門で柳家小ゑん、7代目小三治がいたにもかかわらず1929年3月に真打昇進で小三治襲名、2人小三治状態になる（7代目小三治が師匠・初代柳家三語楼と共に東京落語協会を脱会したのに対し4代目小さん一門が小三治側に名跡を返せと迫ったがこれに応じなかったため、4代目小さん一門側は新たな小三治を誕生させた）。これは7代目小三治が7代目林家正蔵襲名で解消した。出世も期待されたが折しも戦争が激化、終戦の混乱と持病の蓄膿症などもあり4代目小さんの勧めで落語協会事務員となる。1977年5月、落語界から完全引退した。
9代目柳家小三治 - 後の5代目柳家小さん。本名、小林盛夫。
10代目柳家小三治 - 本項にて詳述。


<a href="http://ban.compora.com/images/20091123212612.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20091123212612_m.jpg" width="107" height="200" alt="kosanji-1.jpg" border="0" /></a>


10代目柳家 小三治（やなぎや こさんじ、本名：郡山 剛蔵（こおりやま たけぞう）、1939年12月17日 - ）は東京都新宿区出身の落語家である。落語協会所属、同協会理事。出囃子は『二上りかっこ』。


<a href="http://ban.compora.com/images/20091123212705.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20091123212705_m.jpg" width="200" height="199" alt="kosanji-2.jpg" border="0" /></a>


 人物 
5人兄弟の中で唯一の男。高校時代にラジオ東京の「しろうと寄席」で15回合格を貰う。その当時はニキビ顔だったため、「年頃亭ニキ助」の高座名を名乗る。

40代まではバイクを趣味にしていたが、腱鞘炎を起こし乗らなくなった。他にもスキーや音楽鑑賞など多趣味で知られる。古典落語のほか、『玉子かけ御飯』や『ニューヨーク一人旅』などのエッセイ風の落語（随談）もこなす。

1979年より『象印クイズ ヒントでピント』に出演、翌1980年秋まで男性軍レギュラーを務めた。その後1994年番組700回記念大会にもOBチームメンバーとして佐藤陽子とペアで出演した。

師匠の5代目柳家小さん没後、6代目柳家小さん襲名に最有力であったが、小三治は小さんを継がないとしたため、6代目柳家小さんは5代目の長男3代目柳家三語楼が襲名した。

「笑わせない芸」を目標としている。これは落語は本来面白いもので「笑ってしまう芸」が本物と考えるため。

現在ではリウマチを持病に抱えながらも高座に上がり続けている。のどを痛めないために高座に置かれる湯呑み茶碗にはお茶ではなく漢方薬が入っている。

夫人は染色家の郡山和世、次女は文学座の女優の郡山冬果。


<a href="http://ban.compora.com/images/20091123212452.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20091123212452_m.jpg" width="200" height="100" alt="kosanji-0.jpg" border="0" /></a>


 略歴 
1958年 - 東京都立青山高等学校卒業。
1959年3月 - 5代目柳家小さんに入門。前座名は小たけ。
1963年4月 - 二つ目昇進し、さん治に改名。
1969年9月 - 17人抜きの抜擢で真打昇進。10代目柳家小三治襲名。
1976年 - 放送演芸大賞受賞。
1981年 - 芸術選奨文部大臣新人賞受賞。
2004年 - 芸術選奨文部科学大臣賞受賞。
2005年 - 紫綬褒章受章。
2009年 - 自身に取材したドキュメンタリー映画「小三治」（監督：康宇政）公開。


<a href="http://ban.compora.com/images/20091123212849.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20091123212849_m.jpg" width="200" height="150" alt="kosanji-4.jpg" border="0" /></a>


 映画 
『ホーホケキョとなりの山田君』（俳句朗読）

 DVD 
『落語研究会 柳家小三治全集』 小学館 MHBL-35-45 
Disc1：花見の仇討、もう半分、宿屋の富
Disc2：大山詣り、三年目、堪忍袋
Disc3：船徳、不動坊火焔
Disc4：睨み返し、長者番付、粗忽の釘
Disc5：子別れ・上、子別れ・中、子別れ・下
Disc6：お化け長屋、藪入り
Disc7：鹿政談、芝浜
Disc8：三軒長屋、蛙茶番
Disc9：死神、御神酒徳利
Disc10：厩火事、千両みかん、小言幸兵衛

<a href="http://ban.compora.com/images/20091123214704.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20091123214704_m.jpg" width="142" height="200" alt="kosanji-5.jpg" border="0" /></a>

 著書 
『小三治名席』（講談社）
『ま・く・ら』（講談社）
『もひとつ ま・く・ら』（講談社）
『バ・イ・ク』（講談社）
『小三治の落語（1）-（7）』（朝日新聞社出版局）
『落語家論』（新しい芸能研究室）
『噺家カミサン繁盛記』（講談社）※夫人による執筆。

 弟子 
柳家〆治
柳家喜多八
柳家はん治
柳家福治
7代目柳亭燕路
柳家禽太夫
柳家一琴
柳家三三
柳家三之助


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         <pubDate>Mon, 23 Nov 2009 21:39:32 +0900</pubDate>
         <guid>http://ban.compora.com/?eid=33</guid>
      </item>
      
      <item>
         <title>小津 安二郎（おづ やすじろう）　映画監督</title>
         <link>http://ban.compora.com/?eid=32</link>
         <description><![CDATA[<a href="http://ban.compora.com/images/20090520170334.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20090520170334_m.jpg" width="120" height="200" alt="小津 安二郎（おづ やすじろう）　映画　映画監督 　/　BAN コンポラ ブログ" border="0" /></a>


小津 安二郎（おづ やすじろう、1903年12月12日 - 1963年12月12日）は日本の映画監督。

プロフィール

生い立ち
1903年（明治36年）、東京深川の下町に次男として生まれる。豪商湯浅屋の番頭だった父虎之助と母あさゑの下で育てられる。9歳のときに父の郷里である三重県の松阪へ転居。その後旧制・三重県立宇治山田中等学校（現・三重県立宇治山田高等学校）に入学。映画館通いに熱中して学校の授業をサボタージュしたため、不良学生として寄宿舎から追放。


<a href="http://ban.compora.com/images/20090520170422.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20090520170422_m.jpg" width="200" height="142" alt="小津 安二郎（おづ やすじろう）　映画　映画監督 　/　BAN コンポラ ブログ" border="0" /></a>


代用教員
1921年（大正10年）神戸高等商業学校（現在の神戸大学）を受験して失敗。1922年（大正11年）、三重師範学校（現三重大学教育学部）受験も失敗して、現在の松阪市飯高町にある山村の宮前尋常小学校に1年間の代用教員として赴任。いつも羽織と袴、そして、げたばきと他の教師とは違った異彩を放った風貌で、児童たちに映画の話をしたりマンドリンを弾いて慕われる。現在でも彼の教え子達は健在であり監督以前の小津を語れる重要な人物としてよくインタビューを受けている。


<a href="http://ban.compora.com/images/20090520170444.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20090520170444_m.jpg" width="140" height="200" alt="小津 安二郎（おづ やすじろう）　映画　映画監督 　/　BAN コンポラ ブログ" border="0" /></a>


映画人生
1923年（大正12年）3月に東京へ。親類のつてで松竹蒲田撮影所に入社。大久保忠素に師事する。1927年（昭和2年）『懺悔の刃』で初監督。

戦前は、『大学は出たけれど』、『生まれてはみたけれど』などユーモア溢れる作風の監督として知られる。 戦争中は軍部報道映画班としてシンガポールへ赴任。ここで、接収された大量のハリウッド映画を観て過ごす。

戦後は『長屋紳士録』で復帰。以降は『晩春』『麦秋』『東京物語』などの名作を立て続けに発表し、日本映画界の重鎮となる。この時期の作品は、ほとんど前衛的とすら言える一貫した独自のスタイルに貫かれ、近づきがたい印象さえ一部の人間に与えているが、一般には松竹映画を代表する「ユーモアとペーソスの映画監督」として知られた。この時期の多くの作品は野田高悟との共同脚本であり、原節子や笠智衆などをメインキャストとしている。


<a href="http://ban.compora.com/images/20090520170515.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20090520170515_m.jpg" width="200" height="142" alt="小津 安二郎（おづ やすじろう）　映画　映画監督 　/　BAN コンポラ ブログ" border="0" /></a>


作品

ローアングル
地面ぎりぎりから撮影する独得の低いカメラアングルと厳格なまでの正面からの切り返しのフィックスショットを特徴とし、ローアングルの映画監督としても知られている。このローアングルで撮った「ちゃぶ台を囲む家族たち」のシーン、あるいは「婚期を逃しかけている娘を心配する父親」「父を思いやる娘」等、日本のテレビにおける「ホームドラマ」の型を完成させた監督でもある。 なお、小津安二郎の「切り返しショット」は通常の映画の「文法」に沿っていないと指摘されており、独特の時間感覚とともに作品に違和感を生じさせる一因ともなっている。

自らは家庭を持たぬ小津が、女優に家人の役を配役したり、家族の姿を語らせるなど今だ実像に迫りきっていない部分も多い。


<a href="http://ban.compora.com/images/20090520170536.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20090520170536_m.jpg" width="137" height="200" alt="小津 安二郎（おづ やすじろう）　映画　映画監督 　/　BAN コンポラ ブログ" border="0" /></a>


周囲
後輩の篠田正浩が「物がなくなっていく映画」とユニークに評している。また評論家の川本三郎によると彼は白樺派及び永井荷風の影響を受けたと評されている。

死後、製作されたドキュメンタリー、『生きてはみたけれど 小津安二郎伝』は、彼と共に松竹を支えた木下恵介、追い出されるようにして独立した新藤兼人、疑問を抱いて道を分けた今村昌平という3人の貴重な回想を、やはり「蛮さん」のニックネームで小津に可愛がられた井上和男が監督している。


<a href="http://ban.compora.com/images/20090520170727.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20090520170727_m.jpg" width="180" height="200" alt="小津 安二郎（おづ やすじろう）　映画　映画監督 　/　BAN コンポラ ブログ" border="0" /></a>


評価
戦後の『晩春』以降の作品は国内でも評価が高くヒットしたが、死後は「古臭いホームドラマ映画監督」として忘れ去られようとしていた。これには、松竹ヌーベルバーグを担った大島渚や篠田正浩や吉田喜重など当時の新進監督たちによる古参監督たちへの反発も関与している。死後、しばらくしてからフランスを中心に国際的評価が高まり、その独特の映画スタイルが斬新なものとされ、著名な映画人たちが小津映画への敬愛を口にするようになった。日本では蓮実重彦らが精力的に執筆して、小津安二郎の再評価に努めた。

2003年は小津の生誕100周年にあたるため、記念プロジェクトが立ち上がり、各地で上映会等の記念イベントが催された。


<a href="http://ban.compora.com/images/20090520170648.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20090520170648_m.jpg" width="200" height="200" alt="小津 安二郎（おづ やすじろう）　映画　映画監督 　/　BAN コンポラ ブログ" border="0" /></a>


国際的な支持
映画監督以上に映像芸術家として国際的に知られる日本人。溝口健二、黒澤明と並んで小津も評価が高く、作品『東京物語』はヨーロッパで人気が高い。


敬愛しあるいは影響を明言している作家は世界的にひろがる。その国の映画制作の巨匠も多い。

ヴィクトル・エリセ（スペイン） 
ペドロ・コスタ 
マノエル・デ・オリヴェイラ（以上ポルトガル） 
ヴィム・ヴェンダース 
ペーター・ハントケ（以上ドイツ） 
ストローブ＝ユイレ 
ジャン＝リュック・ゴダール 
フランソワ・トリュフォー（以上フランス) 
アキ・カウリスマキ（フィンランド） 
フランシス・コッポラ 
ヴィンセント・ギャロ 
ジム・ジャームッシュ 
ポール・シュレーダー（以上アメリカ） 
アン・リー 
ホウ・シャオシェン 
エドワード・ヤン（以上台湾） 
メイベル・チャン 
スタンリー・クワン（以上香港） 
ホ・ジノ（韓国） 
アッバス・キアロスタミ（イラン）



作品
監督作品は全54作。代表作に、『東京物語』『大学は出たけれど』『生れてはみたけれど』『晩春』『麦秋』『浮草物語』『東京暮色』『秋日和』『小早川家の秋』『浮草』『秋刀魚の味』『東京の合唱』がある。

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         <pubDate>Wed, 20 May 2009 17:13:14 +0900</pubDate>
         <guid>http://ban.compora.com/?eid=32</guid>
      </item>
      
      <item>
         <title>エラ・フィッツジェラルド (Ella Jane Fitzgerald）　ジャズ・シンガー</title>
         <link>http://ban.compora.com/?eid=31</link>
         <description><![CDATA[<a href="http://ban.compora.com/images/20090311182129.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20090311182129_m.jpg" width="200" height="155" alt="エラ・フィッツジェラルド (Ella Jane Fitzgerald）　音楽　ジャズ・シンガー 　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>


エラ・フィッツジェラルド（Ella Jane Fitzgerald 1917年4月25日 - 1996年6月15日)はアメリカ合衆国のジャズ・シンガー。サラ・ヴォーン、ビリー・ホリデイと並び称される女性ジャズ・ボーカリストの一人。

13回のグラミー賞受賞に加え、イェール、ダートマス、プリンストン大学において名誉博士号を授与され、ジョージ・W・ブッシュ大統領からは大統領自由勲章を授与されるなどレコードセールス、批評の両面で高い評価を受けた。Lady Ellaまたはthe First Lady of Jazzとよばれる。


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生涯
 
エラ・フィッツジェラルド
1940年、カール・ヴァン・ヴェクテン撮影エラ・フィッツジェラルドは1917年4月にヴァージニア州ニューポート・ニューズに生まれ、ニューヨーク州ヨンカースで成長した。両親は彼女の誕生後間もなく離婚している。離婚後父は姿を消し、さらに14歳の時には母が交通事故で死亡し彼女は孤児となった。

1934年11月21日に16歳のエラは初めて聴衆の前にデビューした。ニューヨークのハーレムに存在したアポロ・シアターにおけるアマチュア・ナイツでダンスを披露する予定だったエラは、自分の前に出演した地元のダンス・デュオの演技に圧倒され、予定を変更し自分のアイドルであるコニー・ボズウェルのスタイルを真似て歌を披露した。その夜のコンテストに勝利した彼女はチック・ウェブズ・バンドのBardu Aliに見いだされ、バンドへの誘いを受けた。翌1935年からエラはハーレムのサヴォイ・ボールルームでチック・ウェブズ・バンドをバックに歌手活動を開始した。このバンドと共に、当時のヒット曲を納めた数枚のレコードを作成している。当時病気で療養中であったチック・ウェブの為にヴァン・アレクサンダーと共に作成した一曲『ア・ティスケット・ア・タスケット』が17週間にわたりチャートトップを記録し、アルバムは100万枚のセールスをあげた。1939年にウェブが死亡すると、バンドは名称を"Ella Fitzgerald and Her Famous Orchestra"へと変更しツアーなどの活動を継続した。

1941年からはソロでの活動を開始した。この時期はデッカ・レコードのMilt Gablerがマネージャーを務めている。1955年にデッカを離れた後は、ノーマン・グランツが興したレコード会社ヴァーヴ・レコードに所属した。


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1956年から1964年にかけてつくられた8つのレコードは興行と批評の両面において大きな成功を納め、エラの代表作となった。下にこれらのレコードを挙げる。括弧内は編曲者を記した。

Ella Fitzgerald Sings the Cole Porter Songbook　(1956年、バディー・ブレグマン) 
Ella Fitzgerald Sings the Rodgers & Hart Songbook　(1956年、ブレグマン) 
Ella Fitzgerald Sings the Duke Ellington Songbook　(1957年、デューク・エリントン & ビリー・ストレイホーン) 
Ella Fitzgerald Sings the Irving Berlin Songbook　(1958年、ポール・ウェストン) 
Ella Fitzgerald Sings the George and Ira Gershwin Songbook　(1959年、ネルソン・リドル) 
Ella Fitzgerald Sings the Harold Arlen Songbook　(1961年、ビリー・メイ) 
Ella Fitzgerald Sings the Jerome Kern Songbook　(1963年、リドル) 
Ella Fitzgerald Sings the Johnny Mercer Songbook　(1964年、リドル) 
エラはコール・ポーターとガーシュインの作品を取り上げたアルバム、それぞれ『Ella Loves Cole』と『Nice Work If You Can Get It 』を作成した。パブロ・レコード時代にはアントニオ・カルロス・ジョビンの曲を歌った『Ella Abraça Jobim』をリリースした。これらのレコーディングの合間を縫ってアメリカ国内と外国へのツアーを行っている。

ヴァーヴ時代には幾つかのライブアルバムをリリースした。『Ella at the Opera House』、1950年代の『Ella in Rome』、『Ella in Berlin』、1964年の『Ella at Juan-Les-Pins』、1966年の『Ella and Duke at the Cote D'Azur』などはいずれもも高い評価を受けている。


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私生活
何人かのエラの知人は彼女の人生の皮肉さについて言及している。彼女の歌ではしばしば”完璧なロマンス”が取り上げられたが、実際のエラの生活は1930年代から数十年に渡り、ツアーとレコーディングに明け暮れるロマンスとはほど遠いものであった。

エラは2度の結婚を経験している。一度目は1941年にベニー・コーネゲイと結婚したが、彼は麻薬の密売と詐欺で有罪を宣告され、結婚も早々に解消された。1947年には著名なダブル・ベース奏者であったレイ・ブラウンと再婚した。二人はエラの義理の姉妹の子を養子にとり、レイ・ブラウン・Jrと名付け養育した。 1952年に二人は離婚した。1957年7月にはロイターにより、エラがオスロ生まれのノルウェー人Thor Einar Larsenと結婚する予定であると報じられたが、彼が以前に結婚詐欺を犯していたことがわかり婚約も解消された。

晩年のエラは糖尿病により盲目となり、1993年には手術で両足を切断した。1996年79歳のエラはカリフォルニア州ビバリーヒルズで死亡した。亡骸はイングルウッドの墓地に埋葬された。

後の研究の為にエラに関する個人文書および財産の一部がスミソニアン学術協会およびボストン大学図書館、アメリカ議会図書館に保管されている。

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         <pubDate>Wed, 11 Mar 2009 18:23:51 +0900</pubDate>
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         <title>アントニオ・ガウディ・イ・コルネ（Antoni Gaudí i Cornet）　建築家</title>
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         <description><![CDATA[<a href="http://ban.compora.com/images/20090311171319.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20090311171319_m.jpg" width="139" height="200" alt="アントニオ・ガウディ・イ・コルネ（Antoni Gaudí i Cornet）　建築　建築家 　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>


アントニ・ガウディ・イ・コルネ（カタルーニャ語:Antoni Gaudí i Cornet - 1852年6月25日 バルセロナ - 1926年6月10日）は、スペインの建築家。スペイン語（カスティーリャ語）による表記はアントニオ・ガウディ。

生涯
1852年6月25日、カタルーニャ地方のレウスという街に生まれた。

5歳の時、リウマチに罹患した。激しい痛みのため、遠出する際はロバに乗っていたという。 このため、自由時間になると家の近所で自然を観察して過していた。 こうした幼年期の自然との触れ合いが、自然の造形の観察と分析からデザインを導き出す彼の設計手法に影響を与えたと考えられている。

1873年から1877年の間、ガウディはバルセロナで建築を学んだ。1878年に建築家の資格を取得している。


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前半生の主な作品

バルセロナのレアル広場の街灯（1878-1879年） 
手袋屋のショーケース（1878年） 
パリ万国博覧会に出品。この作品を通じて富豪エウセビオ・グエルの知遇を得た。 
マタロの労働組合本部（1878-1882年） 
ごく一部ではあるが、ガウディが初めて木材を用いて放物線状のデザインを表現した。 
カサ・ビセンス（1883-1885年） 
サンタンデールのエル・カプリッチョ（1883-1885年） 
グエル別邸のパビリオンと厩舎（1884年） 
サグラダ・ファミリアの地下聖堂（1884-1891年） 
グエル邸（1886-1889年） 
アストルガの司教館（1887-1893年） 
テレサ学園（1889-1894年） 
サグラダ・ファミリアのアプス外壁（1891-1893年） 
レオンのボティネス邸（1891-1892年） 
カサ・カルベット（1898-1900年） 
コロニア･グエル教会堂（1898-1914年　未完） 
グエル公園（1900-1914年） 
カサ・バトリョ（1904-1906年） 
カサ・ミラ（1905-1907年） 


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後半生
 
サグラダ・ファミリアガウディは後半生を熱心なカトリック教徒として過した。 1914年以降、彼は宗教関連以外の依頼を断り、サグラダ･ファミリアの建設に全精力を注いだ。 しかし、親族や友人の相次ぐ死によるガウディの仕事の停滞とバルセロナ市が財政危機に見舞われたことによってサグラダ･ファミリアの建設は進まず、同時に進めていたコロニア･グエル教会堂の建設工事は未完のまま中止されてしまう。 さらに1918年、パトロンのグエルが死去。


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この頃の不幸の連続がガウディを変えたと言われている。彼は取材を受けたり写真を撮られるのを嫌うようになり、サグラダ･ファミリアの作業に集中するようになった。


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1926年6月7日、ガウディはミサに向かう途中、路面電車に轢かれた。 晩年身なりに気をつかわなかった為、貧民の向けの病院に運ばれたことにより手当てが遅れ、三日後に息を引き取った。 享年73。サグラダ・ファミリアは未完成で、現在も工事が続けられている。


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設計手法
彼の建築は曲線と細部の装飾を多用した、生物的な建築を得意とし、その独創的なデザインは多くの建築家や芸術家に影響を与えた。 その設計手法は独自の構造力学的合理性と物語性に満ちた装飾の二つの側面より成立する。 網状の糸に重りを数個取り付け、その網の描く形態を上下反転したものが、垂直加重に対する自然な構造形態だと考え、石工がしり込みするような建築を作らせた。 工事中の建物の内部に入って自ら足場を取り除き、身を持って安全性を示そうともした。 装飾は形式的なものに留まらず、植物・動物・怪物・人間などをリアルに表現した。

彼は、設計段階で模型を重要視し、設計図をあまり描かなかった。 設計図は役所に届ける必要最小限のものを描いたのみである。 そのため彼の設計図はあまり残らず、替りに模型が多数残り、現在のサグラダ・ファミリア（聖家族教会）の工事は残された模型を尊重しながら進められている。

サグラダ・ファミリアの設計を目の当たりにした評論家たちは、ガウディに対して「悪魔なのか、天才なのか・・・」とつぶやいていた。

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         <pubDate>Wed, 11 Mar 2009 17:18:59 +0900</pubDate>
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         <title>ヴィム・ヴェンダース（Wim Wenders） 映画監督</title>
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         <description><![CDATA[ヴィム・ヴェンダース（Wim Wenders, 1945年8月14日 - ）はドイツ生まれの映画監督。 本名はWilhelm Ernst Wendersである。

<a href="http://ban.compora.com/images/20090311154853.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20090311154853_m.jpg" width="200" height="146" alt="ヴィム・ヴェンダース　映画監督　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>

<a href="http://ban.compora.com/images/20090311155050.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20090311155050_m.jpg" width="200" height="133" alt="ヴィム・ヴェンダース　映画監督　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>


デュッセルドルフに生まれ、医学と哲学を志すが、後に映画に転向。その作風から見て取れるように多方面からアメリカ文化の影響を受けている。『都会のアリス』『まわり道』『さすらい』などを発表し、一躍ロードムービーの旗手となる。ニュー・ジャーマン・シネマの開拓者としても注目を浴びている。


<a href="http://ban.compora.com/images/20090311155108.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20090311155108_m.jpg" width="140" height="200" alt="ヴィム・ヴェンダース　映画監督　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>

<a href="http://ban.compora.com/images/20090311155127.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20090311155127_m.jpg" width="133" height="200" alt="ヴィム・ヴェンダース　映画監督　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>


1984年、『パリ、テキサス』でカンヌ国際映画祭・パルムドールを受賞。 1985年、小津安二郎に捧げる『東京画』を製作。 1987年、『ベルリン・天使の詩』でカンヌ国際映画祭・監督賞を受賞。

<a href="http://ban.compora.com/images/20090311155143.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20090311155143_m.jpg" width="200" height="157" alt="ヴィム・ヴェンダース　映画監督　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>

写真展「尾道への旅」
2006年の4月29日～5月7日にかけて、表参道ヒルズ本館地下3階のオー「O」で開催された。会場時間は11時～21時だった。

<a href="http://ban.compora.com/images/20090311155159.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20090311155159_m.jpg" width="200" height="161" alt="ヴィム・ヴェンダース　映画監督　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>

写真家でもある夫人のドナータ・ヴェンダースと共に、京都から尾道・鞆の浦・直島へと旅の道中の、日本の古都や瀬戸内の原風景を収めた写真を展示。作風としてはヴィムが風景を、ドナータ夫人がモノクロ写真での人物を表現していた。現在も尚、写真展の公式サイトにおいて、一部作品が掲載されている。

枯木の向日に見える尾道の街並と尾道水道の夕景『Dead Tree』は絶品である。日立造船向島西工場跡地の『男たちの大和』ロケ地での写真も展示されていた。

<a href="http://ban.compora.com/images/20090311155216.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20090311155216_m.jpg" width="184" height="200" alt="ヴィム・ヴェンダース　映画監督　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>


特設ブースでは尾道でのドキュメンタリー映像を流していた。『東京物語』の第二の舞台となった尾道へのオマージュの様相。オープニングとエンディングでは『東京物語』がフィーチャリングされ、全編に渡り現在の尾道の風景を捕えたもので、さながら作風が東京画を彷彿させるものがあった。


先述の『Dead Tree』を撮影したと思われる浄土寺（尾道市）の裏山を登るシーンも映されていた。


<b>主な監督作品</b>
都市の夏 Summer in the City (1970） 
<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/B00005G0M5?ie=UTF8&tag=galletokyocom-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=B00005G0M5" target="_blank">ゴールキーパーの不安</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=galletokyocom-22&l=as2&o=9&a=B00005G0M5" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /> Die Angst des Tormanns beim Elfmeter (1971) 
<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/B000ZH1BGA?ie=UTF8&tag=galletokyocom-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=B000ZH1BGA" target="_blank">都会のアリス</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=galletokyocom-22&l=as2&o=9&a=B000ZH1BGA" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /> Alice in den Stadten (1973) 
<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/B000EGDDMC?ie=UTF8&tag=galletokyocom-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=B000EGDDMC" target="_blank">まわり道</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=galletokyocom-22&l=as2&o=9&a=B000EGDDMC" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />　Falsche Bewegung (1974) 
<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/B000ZH1BGK?ie=UTF8&tag=galletokyocom-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=B000ZH1BGK" target="_blank">さすらい</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=galletokyocom-22&l=as2&o=9&a=B000ZH1BGK" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /> Im Lauf der Zeit (1975) 
<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/B000G1R3S0?ie=UTF8&tag=galletokyocom-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=B000G1R3S0" target="_blank">アメリカの友人</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=galletokyocom-22&l=as2&o=9&a=B000G1R3S0" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /> Der Amerikanische Freund (1977) 
<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/B000ZH1BH4?ie=UTF8&tag=galletokyocom-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=B000ZH1BH4" target="_blank">ことの次第</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=galletokyocom-22&l=as2&o=9&a=B000ZH1BH4" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /> Der Stand der Dinge (1981) ＊ヴェネチア国際映画祭金獅子賞 
<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/B000068W9F?ie=UTF8&tag=galletokyocom-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=B000068W9F" target="_blank">ハメット</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=galletokyocom-22&l=as2&o=9&a=B000068W9F" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /> Hammett (1982) 
<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/B000G1R3RQ?ie=UTF8&tag=galletokyocom-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=B000G1R3RQ" target="_blank">パリ、テキサス</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=galletokyocom-22&l=as2&o=9&a=B000G1R3RQ" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /> Paris, Texas (1984)　＊カンヌ国際映画祭パルム・ドール 
<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/B000EGDDM2?ie=UTF8&tag=galletokyocom-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=B000EGDDM2" target="_blank">東京画</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=galletokyocom-22&l=as2&o=9&a=B000EGDDM2" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /> Tokyo-Ga (1985) 
<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/B000EGDDLI?ie=UTF8&tag=galletokyocom-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=B000EGDDLI" target="_blank">ベルリン・天使の詩</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=galletokyocom-22&l=as2&o=9&a=B000EGDDLI" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /> Der Himmel uber Berlin (1987)　＊カンヌ国際映画祭監督賞 
<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/B000G1R3SA?ie=UTF8&tag=galletokyocom-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=B000G1R3SA" target="_blank">都市とモードのビデオノート</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=galletokyocom-22&l=as2&o=9&a=B000G1R3SA" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /> Aufzeichnungen zu Kleidern und Stadten (1989) ＊山本耀司をフィーチャーしたドキュメンタリ
アリーシャと熊とストーンリング Arisha, the Bear, and the Stone Ring (1992) 
夢の涯てまでも Until the End of the World (1992) 
<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/B0001ZX77C?ie=UTF8&tag=galletokyocom-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=B0001ZX77C" target="_blank">時の翼にのって</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=galletokyocom-22&l=as2&o=9&a=B0001ZX77C" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /> In weiter Ferne, so nah! (1993)　＊カンヌ国際映画祭審査員特別グランプリ 
<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/B00140FB40?ie=UTF8&tag=galletokyocom-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=B00140FB40" target="_blank">リスボン物語</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=galletokyocom-22&l=as2&o=9&a=B00140FB40" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /> Lisbon Story (1995) 
エンド・オブ・バイオレンス The End of Violence (1997) 
<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/B000ZH1BHE?ie=UTF8&tag=galletokyocom-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=B000ZH1BHE" target="_blank">ブエナ☆ビスタ☆ソシアル☆クラブ</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=galletokyocom-22&l=as2&o=9&a=B000ZH1BHE" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /> Buena Vista Social Club (1999) 
ミリオンダラー・ホテル The Million Dollar Hotel (2000) 
<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/B00016AWD8?ie=UTF8&tag=galletokyocom-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=B00016AWD8" target="_blank">10ミニッツ・オールダー</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=galletokyocom-22&l=as2&o=9&a=B00016AWD8" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /> 人生のメビウス Ten Minutes Older: The Trumpet (2002) 
<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/B0006ZXESE?ie=UTF8&tag=galletokyocom-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=B0006ZXESE" target="_blank">ソウル・オブ・マン</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=galletokyocom-22&l=as2&o=9&a=B0006ZXESE" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /> The Soul of a Man (2003) 
<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/B000EPFPBU?ie=UTF8&tag=galletokyocom-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=B000EPFPBU" target="_blank">ランド・オブ・プレンティ</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=galletokyocom-22&l=as2&o=9&a=B000EPFPBU" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /> Land of Plenty (2004) 
<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/B000G1VJZI?ie=UTF8&tag=galletokyocom-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=B000G1VJZI" target="_blank">アメリカ、家族のいる風景</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=galletokyocom-22&l=as2&o=9&a=B000G1VJZI" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /> Don't Come Knocking(2005) 

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         <pubDate>Wed, 11 Mar 2009 15:55:23 +0900</pubDate>
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      </item>
      
      <item>
         <title>ジャック・ケルアック　（Jack Kerouac）　詩人 小説家</title>
         <link>http://ban.compora.com/?eid=28</link>
         <description><![CDATA[<a href="http://ban.compora.com/images/20071205111041.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20071205111041_m.jpg" width="176" height="200" alt="ジャック・ケルアック　詩人　小説家　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>


ジャック・ケルアック（Jack Kerouac、 1922年3月12日 - 1969年10月21日）はアメリカの小説家・詩人で、ビートニク（ビート・ジェネレーション）を代表する作家の一人。『路上』『孤独な旅人』などの著作で知られる。大半は、コロンビア大学を中退して以来のアメリカ放浪と遍歴の生活をそのまま下敷きにしたもの。出生時の名前はJean-Louis Lebris de Kerouac（ジャン＝ルイ・ラブリ・ド・ケルアック）。


<a href="http://ban.compora.com/images/20071205112524.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20071205112524_m.jpg" width="156" height="200" alt="ジャック・ケルアック　詩人　小説家　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>


略歴
1922年、マサチューセッツ州ローウェルの、フランス系カナダ移民の家庭に生まれる。フランス系カナダ人のコミュニティで幼少期を過ごし、小学校に入るまで英語を使うことがなかった。ローウェル高校に進学しフットボールに熱中する。フットボールの推薦でコロンビア大学に進学する。第二次世界大戦中は船員として世界中を航海し、戦後は親友であった作家のウィリアム・バロウズや、ニール・キャサディ、アレン・ギンズバーグらと共にアメリカ中を放浪してまわった。これらの経験から、彼の著作の大半は誕生したといえる。

代表作『路上』は、ヒッピーなどの間で多くの愛読者と熱狂的な信奉者を生み、一気にアメリカのカウンターカルチャーの代表となった。彼らの間で「ビート族の王」「ヒッピーの父」と呼ばれている。アメリカのロックバンド、ドアーズなどはこの本を読まなかったら誕生してなかっただろう、とも言われている。ただ、ケルアック自身はビート・ジェネレーションの代表者として常に攻撃も受けており、「私はビートの王者だが、ビートニクではない」とも語っていたという。


<a href="http://ban.compora.com/images/20071205112627.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20071205112627_m.jpg" width="162" height="200" alt="ジャック・ケルアック　詩人　小説家　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>


晩年はアルコール中毒などから健康を害し、友人との親交も途絶え孤独な日々を暮らしたという。ケルアックは1969年にフロリダ州セントピーターズバーグにおいて47歳で亡くなり、ギンズバークら生前の友人に見送られて故郷ローウェルの墓地に埋葬された。

『路上』においては頻繁に車を運転するシーンが出てくるものの、ケルアック自身は1956年まで車の運転方法を学んだことがなく、また生涯運転免許を取得することはなかったという。


<a href="http://ban.compora.com/images/20071205112912.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20071205112912_m.jpg" width="200" height="130" alt="ジャック・ケルアック　詩人　小説家　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>


ビートニク
『裸のランチ』のバロウズ、『吠える』のギンスバーグ、ゲーリー・スナイダーなどとの交友関係は有名で、これらのタイトルはケルアック自身によって付けられたという。彼らは自分たちを「ビート・ジェネレーション」（この呼称はケルアックが始めて使ったとされる）と呼び、その作品や言動はヒッピー文化の思想的基盤となった。

1999年公開の記録映画『ビートニク』では、彼らの若き日の姿を見ることができる。


<a href="http://ban.compora.com/images/20071205113059.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20071205113059_m.jpg" width="200" height="196" alt="ジャック・ケルアック　詩人　小説家　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>


]]></description>
         <pubDate>Wed, 28 Jan 2009 09:43:59 +0900</pubDate>
         <guid>http://ban.compora.com/?eid=28</guid>
      </item>
      
      <item>
         <title>琉球王国のグスク及び関連遺産群　世界文化遺産</title>
         <link>http://ban.compora.com/?eid=27</link>
         <description><![CDATA[琉球王国のグスク及び関連遺産群　世界文化遺産

<a href="http://ban.compora.com/images/20081013231423.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20081013231423_m.jpg" width="200" height="150" alt="琉球王国-勝連城-復元図01.jpg" border="0" /></a>
＊復元図＊

琉球王国のグスク及び関連遺産群（りゅうきゅうおうこくのグスクおよびかんれんいさんぐん）は、2000年にユネスコの世界遺産（文化遺産）に登録された、グスクなどの琉球王国の史跡群を総称した名称である。沖縄本島の主に南部に点在する。


今帰仁城（なきじんぐすく、なきじんじょう）
<a href="http://ban.compora.com/images/20081013232256.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20081013232256_m.jpg" width="200" height="132" alt="琉球王国-今帰仁城02.jpg" border="0" /></a>

別名：北山城（ほくざんじょう、ほくざんぐすく）は、沖縄県国頭郡今帰仁村にある城跡。14世紀に琉球王国三山時代の三山の一つ・北山王の居城であった。国の史跡に指定されている。
<a href="http://ban.compora.com/images/20081013231837.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20081013231837_m.jpg" width="150" height="200" alt="琉球王国-今帰仁城01.jpg" border="0" /></a>

概要

城内からは中国や東南アジアなどの陶磁器が多量に出土し、往時の繁栄をうかがわせる。北山は尚巴志に1416年（1422年説もある）に滅ぼされるが、北山が滅ぼされた後も旧北山統治の要所として引き続き使用され、北山監守が派遣された。1609年の薩摩藩による琉球侵攻の際には、その攻撃の第一目標となった。

現在も石垣などの遺構の整備が進み、今帰仁城跡として1972年（昭和47年）5月15日に国の史跡に指定される。門から城の中心部へと向かう階段（戦後に造られたもの）の左右にはカンヒザクラの並木があり、毎年1月末～2月始めに開花する。本部町の八重岳などと並び、沖縄県の桜の名所として知られている。（※日本トランスオーシャン航空作成の壁掛けカレンダーの1月は最近数年間ここの桜景色が写真を飾っている）城内には志慶真乙樽歌碑や山北今帰仁城監守来歴碑記などの碑もある。

2000年（平成12年）11月に首里城跡などとともに、琉球王国のグスク及び関連遺産群としてユネスコの世界遺産（文化遺産）に登録された（登録名称は今帰仁城跡）。


座喜味城（ざきみぐすく・ざきみじょう）
は、沖縄県中頭郡読谷村にあるグスク(城)である。
<a href="http://ban.compora.com/images/20081013232358.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20081013232358_m.jpg" width="200" height="150" alt="琉球王国-座喜味城01.jpg" border="0" /></a>

概要

1416年-1422年に読谷山の按司護佐丸（ごさまる）が築城したとされている。城門のアーチに楔石を用いており、アーチ門では古い形態とされる。

沖縄戦前には日本軍の砲台や、戦後には米軍のレーダー基地が置かれたため一部の城壁が破壊されたが、城壁の復元が行われた。

1972年（昭和47年）5月15日、沖縄の本土復帰と同時に国の史跡に指定されたが、米軍基地として使用されていた部分は指定し得なかったため、返還を機に追加指定された。ただし、現状変更のあった部分（西側道路部分）についてはのちに指定を解除している。

2000年11月首里城跡などとともに、琉球王国のグスク及び関連遺産群としてユネスコの世界遺産（文化遺産）にも登録されている（登録名称は座喜味城跡）。城内で演劇が行われるなど、広く利用されている。城跡の高台から西側を望むと残波岬や、晴れた日には慶良間諸島も眺める事ができる。


勝連城（かつれんぐすく・かつれんじょう）
は、沖縄県うるま市にあるグスク(城)である。阿麻和利の城として知られている。
<a href="http://ban.compora.com/images/20081013232641.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20081013232641_m.jpg" width="200" height="131" alt="琉球王国-勝連城01.jpg" border="0" /></a>

<a href="http://ban.compora.com/images/20081013232706.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20081013232706_m.jpg" width="200" height="133" alt="琉球王国-勝連城02.jpg" border="0" /></a>

概要

城は勝連半島の南のつけ根部にある丘陵に位置する。南城（ヘーグシク）、中間の内、北城（ニシグシク）で構成されている。北城は石垣で仕切られた一から三の郭が階段状に連なり、一の郭が最も高く標高約100mの丘陵上にある。

13世紀-14世紀に茂知附按司により築城したとされている。この城の最後の城主が阿麻和利である。阿麻和利はクーデターを起こしてこの地方の按司となり、琉球の統一を目論んだが1458年に琉球王府によって滅ぼされた。

城内からは中国、元代の陶磁器（染付がみつかっており、『おもろさうし』からも当時の反映をみることができる。

城壁の石は道路工事の石材などとして持ち去られたが、現在は復元工事により往事の姿を取り戻しつつある。

2000年11月首里城跡などとともに、琉球王国のグスク及び関連遺産群としてユネスコの世界遺産（文化遺産）にも登録されている（登録名称は勝連城跡）。登録されたグスクの中では最も築城年代が古いグスクとされている。1972年（昭和47年）5月15日、国の史跡に指定された。


中城城（なかぐすくじょう）
は、15世紀の琉球王国・尚泰久王代、護佐丸のグスク（城）として知られる。城壁の増築により現在みられる規模になったと考えられるが、築城の時期は不明。
<a href="http://ban.compora.com/images/20081013232913.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20081013232913_m.jpg" width="200" height="150" alt="琉球王国-中城城02.jpg" border="0" /></a>

<a href="http://ban.compora.com/images/20081013232857.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20081013232857_m.jpg" width="200" height="133" alt="琉球王国-中城城01.jpg" border="0" /></a>

概要

中城城は当時貿易港であった屋宜港から2kmほど離れた標高約160mの丘陵上にあり、中城村の北西から西北から北中城村の南側に伸びていく丘陵の東崖縁を天然の要害とし、グスクの中で最も遺構がよく残っていることで知られている。 石垣の上に立つと西に東シナ海、東に中城湾（太平洋）、さらには洋上の島々まで見渡せる。


首里城（しゅりじょう、スイグスク）
は、沖縄県那覇市首里にあり、かつて海外貿易の拠点であった那覇港を見下ろす丘陵地にあった城。
<a href="http://ban.compora.com/images/20081013233153.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20081013233153_m.jpg" width="200" height="150" alt="琉球王国-首里城01.jpg" border="0" /></a>

<a href="http://ban.compora.com/images/20081013234152.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20081013234152_m.jpg" width="200" height="133" alt="琉球王国-首里城02.jpg" border="0" /></a>

<a href="http://ban.compora.com/images/20081013234306.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20081013234306_m.jpg" width="200" height="133" alt="琉球王国-首里城05.jpg" border="0" /></a>

<a href="http://ban.compora.com/images/20081013234324.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20081013234324_m.jpg" width="200" height="133" alt="琉球王国-首里城06.jpg" border="0" /></a>

<a href="http://ban.compora.com/images/20081013234347.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20081013234347_m.jpg" width="200" height="150" alt="琉球王国-首里城07.jpg" border="0" /></a>

概要

琉球王朝の王城で、沖縄県内最大規模の城（グスク）であった。戦前は正殿などが国宝であったが、1945年の沖縄戦と戦後の琉球大学建設により完全に破壊され、わずかに城壁や建物の基礎などの一部が残っている。1980年代前半の琉球大学の西原町への移転にともない、本格的な復元は1980年代末から行われ、1992年に、正殿などが旧来の遺構を埋め戻す形で復元された。1993年に放送されたNHK大河ドラマ「琉球の風」の舞台になった。1999年には都市景観100選を受賞。その後2000年12月、『琉球王国のグスク及び関連遺産群』として世界遺産に登録されたが、登録は「首里城跡（しゅりじょうあと）」であり、復元された建物や城壁は世界遺産ではない。

周辺には同じく世界遺産に登録された玉陵、園比屋武御嶽石門のほか、第二尚氏の菩提寺である円覚寺（えんかくじ）跡、国学孔子廟跡、舟遊びの行われた池である龍潭、弁財天堂（べざいてんどう）などの文化財がある。

歴史・沿革
 
戦災で失われる前の首里城正殿（空手演舞） - 1938年 
守礼門 
歓会門 
歓会門を外側から望む 
城壁 
奉神門 
瑞泉門を外側から望む 
園比屋武御嶽石門 
城内より市街を望む 
首里城の創建年代は明らかではない。近年の発掘調査から最古の遺構は14世紀末のものと推定され、三山時代には中山の城として用いられていたことが確認されている。おそらく、13世紀末から14世紀のグスク造営期に他の沖縄の多くの城同様に成立したものと考えられる。 尚巴志が三山を統一し琉球王朝を立てると、首里城を王家の居城として用いるようになった。同時に首里は首府として栄え、第二尚氏においても変えられることはなかった。

史書で記録されている限りでも、首里城は数度にわたり焼失しており、そのたびに再建されてきた。その度に木材の調達が問題となり、薩摩藩からの木材提供で再建を行ったり、将来の木材需要を見越して本島北部での植林事業を行ったりしている。一度目の焼失は1453年に第一尚氏の尚金福王の死去後に発生した王位争い（志魯・布里の乱）であり、城内は完全に破壊された。二度目の消失は1660年のことであり再建に11年の年月を要した。しかし1709年に三度目の火災が起き正殿・北殿・南殿などが焼失した。この時は財政が逼迫しており、1712年に薩摩藩から2万本近い原木を提供された。現在見る首里城の建築は、三度目の火災の後再建された1715年から1945年までの姿を基にしている。

1879年の沖縄県設置に至る琉球処分以後は、正殿など首里城の建物は政府の所在地としての役割を喪失し、日本陸軍の第6師団（熊本）の軍営として、その後は首里区（後の首里市）に払い下げられ、学校などとして利用された。

王宮でなくなった首里城は急速に荒廃が進み、老朽化が激しく崩壊寸前の状態になった。既に門のいくつかは取り壊されており、正殿の取り壊しも検討された。しかし、伊東忠太、鎌倉芳太郎ら関係者の奔走により保存が決定され、昭和初期（1928年～1933年）に正殿の改修工事が行われて国宝に指定され、県社沖縄神社の社殿となり源為朝と歴代国王が祀られた。太平洋戦争中の沖縄戦において日本軍が首里城の下に地下壕を掘り総司令部を置いたこともあり、1945年5月25日から3日間に渡りアメリカ軍艦ミシシッピなどから砲撃を受け、27日に焼失したとされる。さらに日米両軍の激しい戦闘で、首里城やその城下の町並み、琉球王国の宝物・文書を含む多くの文化財が破壊された。宝物庫は奇跡的に戦災を免れたが、中の財宝は全て米軍に略奪された。

戦後、首里城跡に琉球大学が置かれたことで、多くの遺構が撤去あるいは埋められたが、首里城の再建は戦後間もなくから多くの人々の悲願だった。1958年に守礼門が再建されたのを皮切りに円覚寺門など周辺の建築から再建が始まり、1972年の日本復帰後は国の史跡に指定（1972年5月15日指定）され、城の入り口に当たる歓会門と周囲の城郭が再建された。1979年に琉球大学が移転すると1980年代に県および国による首里城再建計画が策定され、本格的な復元がはじまった。1989年、遺構の発掘調査や昭和初期の正殿改修図面・写真資料、古老の記憶などを元に、工芸家や職人を動員した当時の装飾・建築技術の復元作業が行われて正殿他の再建が始まった。1992年には正殿を中心とする建築物群、そこへ至る門の数々と城郭が再建され首里城公園が開園した。現在は、首里城を中心とした一帯が首里城公園として整備・公開がすすめられており、正殿の裏側にあたる城郭や建築物群の再建事業も引き続き行われている。2000年には、首里城跡（しゅりじょうあと）として他のグスクなどとともに「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の名称で世界遺産に登録された。


園比屋武御嶽（そのひゃんうたき）
は16世紀の琉球王国・尚真王時代の御嶽で、沖縄県那覇市首里真和志町一丁目に位置する。沖縄県指定史跡。
<a href="http://ban.compora.com/images/20081013234857.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20081013234857_m.jpg" width="200" height="150" alt="琉球王国-首里城011.jpg" border="0" /></a>

概要

石門の背後にある森が園比屋武御嶽である。この御嶽は国王が各地を巡航する旅に出る際必ず拝礼した場所であり、また聞得大君が就任するときにまず最初に拝礼した、いわば国家の聖地だった。王家尚氏ゆかりの島である伊平屋島の神「田の上のソノヒヤブ」を勧請し、祭っている。 もともとは今より広範な森であったが、現在では小学校の敷地となっている部分もあり、残されているのはその一部である。

首里城歓会門と守礼門との間にある園比屋武御嶽石門（そのひゃんうたきいしもん）がこの御嶽の礼拝所である。 園比屋武御嶽石門は、1519年に第二尚氏王統第3代王の尚真のときに造られた。オヤケアカハチの乱（1500年）で、王府軍が八重山へ出兵したさいに、将の一人であった大里親方に見込まれ首里に連れてこられた西塘という人物により創建されたとされる。

沖縄戦において王城とともに戦禍を被り、無惨な姿となるがのち1957年に復元。さらにそのご旧石門の残欠を再利用しての修復作業が行われた。現在の石門を注意深く見てみると、明らかに摩耗の度合いが異なる部分があるが、このためである。園比屋武御嶽石門は2000年11月首里城跡などとともに、琉球王国のグスク及び関連遺産群としてユネスコの世界遺産（文化遺産）にも登録されている。


玉陵（たまうどぅん、玉御殿または霊御殿とも）
は、琉球王国、第二尚氏王統の歴代国王が葬られている陵墓。所在地は沖縄県那覇市首里金城町。そもそもは第3代尚真王（在位1477年 - 1526年）が父、尚円王を葬るために建築したものである。世界遺産のひとつで沖縄県最大の破風墓。なお「玉陵」と名付く墓所はほかに「伊是名玉陵」、「山川の玉陵」がある。
<a href="http://ban.compora.com/images/20081013235120.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20081013235120_m.jpg" width="200" height="132" alt="琉球王国-玉陵01.jpg" border="0" /></a>

概要

玉陵は中室、東室、西室の3つの建築物に分かれる。中室は葬儀の後、遺骸が骨になるまで放置し、骨を取り出して洗骨した。洗骨した後、王及びその妃の骨は東室に納められ、他の王族は西室に納められた。建造物の外は外庭、中庭に石壁で仕切られ、中庭には珊瑚の破片が敷き詰められている。

第二次世界大戦時には、玉陵は東室、西室が破壊されるなど大きな被害を受けた。現在、見られる大部分は第二次世界大戦後に復元されたものである。また第二次世界大戦でなくなった沖縄県立一中の生徒を弔うための「一中健児の塔」などが近くに建立されている。

2000年に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録された他、全体が国の史跡、玉陵墓室石牆が国の重要文化財（建造物）、石彫獅子と玉陵碑が県の有形文化財（彫刻）に指定されている。


識名園（しきなえん）
は沖縄県那覇市識名にある琉球庭園の一つ。
<a href="http://ban.compora.com/images/20081013235259.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20081013235259_m.jpg" width="200" height="112" alt="琉球王国-識名園01.jpg" border="0" /></a>

識名の御殿（しちなぬうどぅん）とも、また首里城の南にあることから南苑（なんえん）とも呼ばれた。造園は琉球の第二尚氏王朝、尚穆（在位・1752年 - 1795年）の時代に始まったと言われるが定かではない。完成は尚温の時代の1799年。

中国の様式と沖縄独自の様式の折衷様式で建築されている。完成当時は中国皇帝からの使者（冊封使）をもてなす、現在でいう迎賓館として使われた。「勧耕台」と称する展望台があるが、海を望むことはできない。これは琉球をより大きな国に見せるためともいわれている。

正門から池に通ずる石畳道は真珠道（まだまみち）と呼ばれ、かつては首里城と識名園とを結んでいた。現在では金城町の部分のみ石畳が残っている。

第二次世界大戦で園内のほとんどの建造物が破壊されたため、現在見られるものは復元（工期:1975～1995年）である。

1941（昭和16）年、国の名勝に指定され、戦禍で壊滅後、1976年再指定。2000（平成12）年には国の特別名勝に指定され、同年12月世界文化遺産に登録。

1999（平成11）年以来、毎年11月3日（文化の日）には園内で識名園歌会（花ゆうな短歌会主催・那覇市教育委員会共催）が開かれ、短歌を楽しむ人達でにぎわう。

なお、敷地内に「育徳泉(いくとくせん)」という泉が湧く。そこに生える淡水産の紅藻類「チシマスジノリ」は国の天然記念物である。


斎場御嶽（せいふぁうたき／せーふぁうたき／サイハノうたき）
は現在の南城市（旧知念村）にある史跡。15世紀-16世紀の琉球王国・尚真王時代の御嶽であるとされる。「せーふぁ」は「最高位」を意味し、「斎場御嶽」は「最高の御嶽」ほどの意味となり、これは通称である。正式な神名は「君ガ嶽、主ガ嶽ノイビ」という。
<a href="http://ban.compora.com/images/20081013235443.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20081013235443_m.jpg" width="150" height="200" alt="琉球王国-斎場御嶽01.jpg" border="0" /></a>

施設と伝承

敷地内には首里城内の施設名と同じ拝所が複数ある。 ３つの拝所が集中する最奥部の三庫理（さんぐーい）には「チョウノハナ（京のはな）」という最も格の高い拝所があり、クバの木を伝って琉球の創世神であるアマミクが降臨するとされる。 なお、三庫理からは王国開闢にまつわる最高聖地とされている久高島を遥拝することができるが、これについては史書には記述がない。これは、近世になって三庫理の岩壁の一角が崩れたことによるもので、かつての三庫理は三方を岩壁に囲まれた空間だった。

王国時代の斎場御嶽

文字通り王国最高の御嶽とされ、国家の最高神職である聞得大君が管理した。聞得大君の就任儀式「御新下り（おあらおり）」が行われた御嶽でもある。かつて琉球の御嶽はその全てが男子禁制であり、斎場御嶽では庶民は入口の御門口（うじょーぐち）を越えて進入することは許されず、国王であっても、御門口より先に入るには袂の合わせを女装に改める必要があったという。

文化的価値

2000年11月首里城跡などとともに、琉球王国のグスク及び関連遺産群としてユネスコの世界遺産（文化遺産）に登録されている。また、国の史跡、沖縄県指定名勝にも指定されており、御嶽内で出土した陶磁器と勾玉などは国の重要文化財（考古資料）に指定されている。

なお、周囲の森林は沖縄本島南部に於けるもっとも優れた森林の一つである。本島中南部は第二次世界大戦において被害を受け、それ以前の状態を残した場所がほとんどないが、この地域は戦災を免れた。シダ植物やラン科植物などに珍しいものが多い。2000年代以降御嶽周辺が整備され、森林に荒廃の様子が見られる。


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         <pubDate>Mon, 13 Oct 2008 23:56:30 +0900</pubDate>
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      </item>
      
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         <title>紀伊山地の霊場と参詣道　世界文化遺産</title>
         <link>http://ban.compora.com/?eid=26</link>
         <description><![CDATA[<a href="http://ban.compora.com/images/20081013164409.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20081013164409_m.jpg" width="200" height="150" alt="紀伊山地-高野山01.jpg" border="0" /></a>

紀伊山地の霊場と参詣道（きいさんちのれいじょうとさんけいみち）は、和歌山県・奈良県・三重県にまたがる霊場、寺院、参詣道（熊野古道、大峯奥駈道、高野山町石道）などの総称。2004年7月7日、ユネスコの世界遺産（文化遺産）に登録された。（7月1日に登録が決定した）。

<a href="http://ban.compora.com/images/20081013165402.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20081013165402_m.jpg" width="143" height="200" alt="紀伊山地マップ.jpg" border="0" /></a>


吉野・大峯

吉野山（よしのやま）は奈良県の中央部・吉野郡吉野町に位置する山。国の史跡・名勝。
大峰信仰登山の根拠地であり、日本史上の転回点にもたびたび登場している。古くから花の名所として有名。この一帯は1936年吉野熊野国立公園に指定されている。さらに吉野山・高野山から熊野にかけての霊場と参詣道が2004年7月、『紀伊山地の霊場と参詣道』としてユネスコの世界遺産に登録された。

<a href="http://ban.compora.com/images/20081013170727.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20081013170727_m.jpg" width="116" height="200" alt="紀伊山地-吉02.jpg" border="0" /></a>


金峯山寺 
<a href="http://ban.compora.com/images/20081013171124.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20081013171124_m.jpg" width="200" height="166" alt="紀伊山地-金01.jpg" border="0" /></a>

金峯神社 
<a href="http://ban.compora.com/images/20081013171655.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20081013171655_m.jpg" width="200" height="150" alt="紀伊山地-金神社01.jpg" border="0" /></a>

大峯山（おおみねさん）は奈良県の中央にある山。
この一帯は1936年吉野熊野国立公園に指定され、さらに2004年（平成16年）7月ユネスコの世界遺産に「紀伊山地の霊場と参詣道」の文化的景観を示す主要な構成要素として史跡「大峯山寺」史跡「大峯奥駈道」が登録された。1984年（昭和59）8月、大峰山寺の外陣回りの地下調査で、2体の黄金仏が検出された。

<a href="http://ban.compora.com/images/20081013172721.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20081013172721_m.jpg" width="200" height="150" alt="紀伊山地-大峰山0.jpg" border="0" /></a>

龍泉寺 
<a href="http://ban.compora.com/images/20081013173216.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20081013173216_m.jpg" width="200" height="150" alt="紀伊山地-龍02.jpg" border="0" /></a>


熊野

熊野三山（くまのさんざん）は、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の三つの神社の総称。熊野三山の名前からもわかる通り、仏教的要素が強い。2004年に、「紀伊山地の霊場と参詣道」として、高野山などとともにユネスコの世界遺産（文化遺産）に登録された。日本全国に約3千社ある熊野神社の総本社である。

熊野速玉大社（くまのはやたまたいしゃ）
<a href="http://ban.compora.com/images/20081013173549.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20081013173549_m.jpg" width="200" height="112" alt="紀伊山地-速玉02.jpg" border="0" /></a>

熊野本宮大社（くまのほんぐうたいしゃ）
<a href="http://ban.compora.com/images/20081013173650.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20081013173650_m.jpg" width="200" height="102" alt="紀伊山地-本宮01.jpg" border="0" /></a>

熊野那智大社（くまのなちたいしゃ）
<a href="http://ban.compora.com/images/20081013173851.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20081013173851_m.jpg" width="200" height="150" alt="紀伊山地-那智01.jpg" border="0" /></a>

那智滝（なちのたき）
<a href="http://ban.compora.com/images/20081013174143.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20081013174143_m.jpg" width="200" height="182" alt="紀伊山地-那智滝03.jpg" border="0" /></a>

青岸渡寺（せいがんとじ）
<a href="http://ban.compora.com/images/20081013174445.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20081013174445_m.jpg" width="200" height="133" alt="紀伊山地-那智滝04.jpg" border="0" /></a>

那智原生林
<a href="http://ban.compora.com/images/20081013174752.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20081013174752_m.jpg" width="200" height="141" alt="紀伊山地-那智原生林 01.jpg" border="0" /></a>


高野山

高野山（こうやさん）は、和歌山県にある標高約1,000メートル前後の山々の総称。平安時代の弘仁10年（819年）頃より弘法大師空海が修行の場として開いた高野山真言宗、ひいては比叡山と並び日本仏教における聖地であり総本山金剛峯寺がある。山内の寺院の数はおよそ117ヶ寺（多くが宿坊を兼ねている）。平成16年（2004年）7月、『紀伊山地の霊場と参詣道』としてユネスコの世界遺産に登録された。高野山は金剛峯寺の山号でもある。太平洋戦争当時、海軍航空隊があった。

<a href="http://ban.compora.com/images/20081013175149.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20081013175149_m.jpg" width="200" height="108" alt="紀伊山地-高野山マップ01.jpg" border="0" /></a>


金剛峯寺（こんごうぶじ）
<a href="http://ban.compora.com/images/20081013175340.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20081013175340_m.jpg" width="200" height="136" alt="紀伊山地-高野山-金剛峯寺01.jpg" border="0" /></a>

金剛三昧院（こんごうさんまいいん）
<a href="http://ban.compora.com/images/20081013175453.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20081013175453_m.jpg" width="200" height="133" alt="紀伊山地-高野山-金剛三昧院01.jpg" border="0" /></a>

慈尊院（じそんいん）
<a href="http://ban.compora.com/images/20081013181816.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20081013181816_m.jpg" width="200" height="132" alt="紀伊山地-高野山-慈尊院01.jpg" border="0" /></a>


参詣道（熊野古道）

大峯奥駈道（おおみねおくがけみち）は、熊野三山（熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社）へと通じる修行道であり、熊野参詣道のひとつ。

小辺路（こへち）は、熊野三山（熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社）へと通じる参詣道・熊野古道のひとつ。

中辺路（なかへち）は、熊野三山（熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社）へと通じる参詣道・熊野古道のひとつ。田辺から山間部の熊野本宮大社・熊野那智大社を通って、熊野速玉大社に至るおよそ21里（84km）の行程である。
中辺路とは海沿いを行く大辺路に対する呼称で、辺路には遍路という意味がある。

大辺路（おおへち）は、熊野三山（熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社）へ通じる参詣道・熊野古道のひとつ。

伊勢路（いせじ）は、伊勢国・伊勢神宮から、熊野三山（熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社）へ通じる参詣道であり、熊野古道のひとつである。『東海道中膝栗毛』にも登場する。

伊勢神宮

伊勢神宮（いせじんぐう）は三重県伊勢市にある神社。神社本庁の本宗（ほんそう）とされ、正式名称は神宮。ほかの神宮と区別する場合には伊勢の神宮と呼ぶ。神階が無く[1]、また明治時代から戦前までの国家神道における近代社格制度で別格とされたため、格付けはされない。

<a href="http://ban.compora.com/images/20081013182520.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20081013182520_m.jpg" width="200" height="159" alt="紀伊山地-高野山-伊勢神宮01.jpg" border="0" /></a>

高野山町石道（こうやさんちょういしみち）は、慈尊院（和歌山県伊都郡九度山町）から高野山（和歌山県伊都郡高野町）へ通じる高野山の表参道で、弘法大師空海が高野山を開山して以来の信仰の道とされてきた。
2004年7月に、高野山とともに『紀伊山地の霊場と参詣道』としてユネスコの世界遺産に登録された。また、国指定の史跡でもある。登録名は「高野山町石」。


問題

地権者との対立
三重県尾鷲市で遺産登録地域の地権者が抗議の意を込めて参道の樹木などに落書きをしており問題になっている。一般的ないたずらの落書きとは違い抗議が目的であるために強硬な措置は取られず話し合いにより解決する方向である。これは、地権者に対する事前説明がなされずに遺産登録されたため、地権者の職業である林業ができなくなったためである。


観光地化による影響
遺産本体部分やその緩衝地帯、さらには（世界遺産には含まれないが）その周辺地域での損壊が絶えない。特に、参詣道跡である熊野古道周辺でそれが著しい。また、世界遺産登録後、観光客の殺到によって一部の遺産では荒廃が進んでいるとの指摘もある。


関西電力の風力発電計画
2005年1月、関西電力は果無山脈に風力発電のための風車を建設する計画を発表した。果無山脈は遺産にも緩衝地帯にもあたらないが、熊野古道から容易に眺望しうるため景観に悪影響を与える恐れがある。また、果無山脈それ自体が近隣の河川（熊野川、日置川、富田川、日高川）の分水嶺となっており、工事による河川への悪影響が懸念されている。


古道の「整備」
中辺路・大辺路を中心に2002年頃から数度にわたり、地元自治体の公共事業（古道の整備を目的とする）、古道とその周辺での植生の刈り払いが何度か行われたが、景観の悪化や、貴重な照葉樹林の損失など、むしろ弊害が大きく批判の対象となっている。加えて、いくつかの事例には和歌山県が関与している他、国の緊急地域雇用創出特別基金事業の下で行われた県の公共事業「緑の雇用事業」の一環であるものもあるなど、行政当局の遺産保護に対する姿勢や「縦割り」の弊害を問う声があがっている。

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         <pubDate>Mon, 13 Oct 2008 17:59:10 +0900</pubDate>
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      </item>
      
      <item>
         <title>山下　清　（やました きよし）　画家</title>
         <link>http://ban.compora.com/?eid=25</link>
         <description><![CDATA[<a href="http://ban.compora.com/images/20080216171352.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20080216171352_m.jpg" width="154" height="200" alt="山下清　（やました きよし）　画家　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>


山下 清（やました きよし、本名：大橋清治 1922年3月10日 - 1971年7月12日）は、日本の画家。日本中を放浪していたことで知られる。


<a href="http://ban.compora.com/images/20080216171832.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20080216171832_m.jpg" width="200" height="183" alt="山下清　（やました きよし）　画家　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>


略歴

東京府東京市浅草区田中町（現・東京都台東区日本堤）に生まれる。

3歳の頃、重い消化不良になり一命は取りとめたものの後遺症で軽い言語障害、知的障害に進行。


<a href="http://ban.compora.com/images/20080216172430.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20080216172430_m.jpg" width="200" height="143" alt="山下清　（やました きよし）　画家　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>


小学生の頃いじめに遭った際ナイフで級友を傷つけたため、親も心配し千葉県市川市の知的障害児施設「八幡学園」へ収容される。学園で清は「ちぎり紙細工」を試みていたが、精神病理学者の式場隆三郎らがその才能に注目、1939年1月大阪の朝日記念会館ホールで展覧会が開催され、多くの人々を賛嘆させた。


<a href="http://ban.compora.com/images/20080216172803.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20080216172803_m.jpg" width="200" height="172" alt="山下清　（やました きよし）　画家　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>


清は学園に長くいた為にそこでの生活に飽きて脱走し、放浪の旅へと出て行った。（1940年から1954年まで）さらに、脱走の翌々年受ける事になっていた徴兵検査を受けたくなかったため、更に放浪を続けた[1]。21歳の時、食堂で手伝いをしていた時に、施設の職員がやってきて、無理やり徴兵検査を受けさせたが兵役免除となる。この記録は『放浪日記』（1956年）にまとめられた。なお、このときのいでたちとしてリュック姿はあまりにも有名だが実際にリュックを背使っていた期間は2年程度と短く、当初はみかん箱を抱えての旅であり、その後風呂敷、リュックと変化していく。驚異的な映像記憶力の持ち主で「花火」「桜島」など行く先々の風景を多くの貼絵にのこしているが、旅先ではほとんど絵を描くことがなく、八幡学園や実家に帰ってから記憶を元に描くというスタイルだった。このエピソードから氏はサヴァン症候群であった可能性が高いといわれている。


<a href="http://ban.compora.com/images/20080216172929.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20080216172929_m.jpg" width="200" height="176" alt="山下清　（やました きよし）　画家　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>


戦後は「日本のゴッホ」、「裸の大将」とよばれた。1956年の東京大丸の「山下清展」をはじめ全国巡回展が約130回開かれ、観客は500万人をこえた。1961年6月、式場隆三郎らとともに約40日間のヨーロッパ旅行に出発。各地の名所を絵に残した。


<a href="http://ban.compora.com/images/20080216173411.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20080216173411_m.jpg" width="200" height="178" alt="山下清　（やました きよし）　画家　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>


1971年7月12日、脳出血のため49歳の若さで死去。


<a href="http://ban.compora.com/images/20080216173457.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20080216173457_m.jpg" width="153" height="200" alt="山下清　（やました きよし）　画家　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>

<a href="http://ban.compora.com/images/20080216175145.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20080216175145_m.jpg" width="160" height="200" alt="山下清　（やました きよし）　画家　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>


そのため、常磐線我孫子駅で販売されていた駅弁の包装紙のデザインは四季をテーマに4種類依頼されたが、3種類しか作成されなかった。


<a href="http://ban.compora.com/images/20080216174054.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20080216174054_m.jpg" width="147" height="200" alt="山下清　（やました きよし）　画家　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>



日本の画壇では、竹久夢二と並んで人気の高さにも拘わらず評価されていない画家とされる。


<a href="http://ban.compora.com/images/20080216174728.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20080216174728_m.jpg" width="200" height="141" alt="山下清　（やました きよし）　画家　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>


その人気の高さや、所属していた画壇がなかった為にその作品を鑑定できる者がいない事、各地でお礼の為に作品を残したというテレビドラマの影響（実際には貼り絵はほぼ学園や自宅にて行っていて、遺族が保管。）から、贋作を本物と偽った展覧会などが開催されることがある。


<a href="http://ban.compora.com/images/20080216174311.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20080216174311_m.jpg" width="143" height="200" alt="山下清　（やました きよし）　画家　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>



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         <pubDate>Sat, 16 Feb 2008 17:45:57 +0900</pubDate>
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         <title>古都奈良の文化財　世界文化遺産</title>
         <link>http://ban.compora.com/?eid=24</link>
         <description><![CDATA[
<a href="http://ban.compora.com/images/20080213134312.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20080213134312_m.jpg" width="200" height="133" alt="古都奈良の文化財　世界文化遺産・日本　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>


古都奈良の文化財（ことならのぶんかざい）は、奈良県奈良市地域に存在する寺院等の総称。1998年12月2日京都市で開催されたユネスコ世界遺産委員会で日本で9件目の世界遺産（文化遺産）として登録された。


東大寺

<a href="http://ban.compora.com/images/20080213134926.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20080213134926_m.jpg" width="200" height="150" alt="古都奈良の文化財　世界文化遺産・日本　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>

東大寺（とうだいじ）は、奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の仏教寺院である。現別当（住職）は219世・上野道善。

「金光明四天王護国之寺」（こんこうみょうしてんのうごこくのてら）ともいい、奈良時代（8世紀）に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏（るしゃなぶつ）を本尊とし、開山（初代別当）は良弁僧正（ろうべんそうじょう）である。

奈良時代には中心堂宇の大仏殿（金堂）のほか、東西2つの七重塔（推定高さ約100メートル）を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。現存する大仏は、台座などの一部に当初の部分を残すのみであり、現存する大仏殿は江戸時代、18世紀初頭の再建で、創建当時の堂に比べ、間口が3分の2に縮小されている。「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで貴賎を問わず広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の本山にあたる「総国分寺」と位置づけられた。

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歴史

創建と大仏造立
東大寺の起源は大仏造立よりやや古く、8世紀前半には大仏殿の東方、若草山麓に前身寺院が建てられていた。東大寺の記録である『東大寺要録』によれば、天平5年（733年）、若草山麓に創建された金鐘寺（または金鍾寺（こんしゅじ））が東大寺の起源であるとされる。一方、正史『続日本紀』によれば、神亀5年（728年）、第45代の天皇である聖武天皇と光明皇后が幼くして亡くなった皇子の菩提のため、若草山麓に「山房」を設け、9人の僧を住まわせたことが知られ、これが金鐘寺の前身と見られる。金鐘寺には、8世紀半ばには羂索堂、千手堂が存在したことが記録から知られ、このうち羂索堂は現在の法華堂（＝三月堂、本尊は不空羂索観音）を指すと見られる。天平13年（741年）には国分寺建立の詔（みことのり）が発せられ、これを受けて翌天平14年（742年）、金鐘寺は大和国の国分寺と定められ、寺名は金光明寺と改められた。

大仏の鋳造が始まったのは天平19年（747年）で、この頃から「東大寺」の寺号が用いられるようになったと思われる。なお、東大寺建設のための役所である「造東大寺司」が史料に見えるのは天平20年（748年）が最初である。

聖武天皇が大仏造立の詔（みことのり）を発したのはそれより前の天平15年（743年）である。当時、都は恭仁京（くにのみや 京都府相楽郡加茂町）に移されていたが、天皇は恭仁京の北東に位置する紫香楽宮（しがらきのみや 現・滋賀県甲賀市信楽町）におり、大仏造立もここで始められた。聖武天皇は短期間に遷都を繰り返したが、2年後の天平17年（745年）、都が平城京に戻るとともに大仏造立も現在の東大寺の地であらためて行われることになった。この大事業を推進するには幅広い民衆の支持が必要であったため、朝廷から弾圧されていた行基を大僧正として迎え、協力を得た。

難工事の末、大仏の鋳造が終了し、天竺（インド）出身の僧・菩提僊那を導師として大仏開眼会（かいげんえ）が挙行されたのは天平勝宝4年（752年）のことであった。そして、大仏鋳造が終わってから大仏殿の建設工事が始められ、竣工したのは天平宝字2年（758年）のことであった。

東大寺では大仏創建に力のあった良弁、聖武天皇、行基、菩提僊那を「四聖（ししょう）」と呼んでいる。

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東大寺と橘奈良麻呂
大仏造立・大仏殿建立のような大規模な建設工事は国費を浪費させ、日本の財政事情を悪化させるという、聖武天皇の思惑とは程遠い事実を突き付けた。実際に、貴族や寺院が富み栄える一方、農民層の負担が激増し、平城京内では浮浪者や餓死者が後を絶たず、租庸調の税制も崩壊寸前になる地方も出るなど、律令政治の大きな矛盾点を浮き彫りにした。

天平勝宝8歳（756年）5月2日、聖武太上天皇が死去する。その年の7月に起こったのが、橘奈良麻呂の乱である。7月4日に逮捕された橘奈良麻呂は、藤原永手の聴取に対して「東大寺などを造営し人民が辛苦している。政治が無道だから反乱を企てた」と謀反を白状した。ここで、永手は、「そもそも東大寺の建立が始まったのは、そなたの父（橘諸兄）の時代である。その口でとやかく言われる筋合いは無いし、それ以前にそなたとは何の因果もないはずだ」と反論したため、奈良麻呂は返答に詰まったと言う。橘奈良麻呂の乱は計画性に乏しく、軽率と言えば、軽率ではあった。しかしながら、反乱の口実にまで東大寺が利用された、ということは、東大寺建立自体が、天皇の理想を実現させる、ただそれだけのために実際の労働状況や財政事情等の問題点を度外視した途方もない、一大プロジェクトであったことをも白日の下にさらした。

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奈良時代・平安時代の東大寺
奈良時代の東大寺の伽藍は、南大門、中門、金堂（大仏殿）、講堂が南北方向に一直線に並び、講堂の北側には東・北・西に「コ」の字形に並ぶ僧房（僧の居所）、僧房の東には食堂（じきどう）があり、南大門-中門間の左右には東西2基の七重塔（高さ約100メートルと推定される）が回廊に囲まれて建っていた。天平17年（745年）の起工から、伽藍が一通り完成するまでには40年近い時間を要している。

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奈良時代のいわゆる南都六宗（華厳宗、法相宗、律宗、三論宗、成実宗、倶舎宗）は「宗派」というよりは「学派」に近いもので、日本仏教で「宗派」という概念が確立したのは中世以後のことである。そのため、寺院では複数の宗派を兼学することが普通であった。東大寺の場合、近代以降は所属宗派を明示する必要から華厳宗を名乗る[3]が、奈良時代には「六宗兼学の寺」とされ、大仏殿内には各宗の経論を納めた「六宗厨子」があった。平安時代には空海によって寺内に真言院が開かれ、空海が伝えた真言宗、最澄が伝えた天台宗をも加えて「八宗兼学の寺」とされた。

また、平安時代に入ると、桓武天皇の南都仏教抑圧策により「造東大寺所」が廃止されるなどの圧迫を受けるが、後に皇族・貴族の崇敬を受けて黒田庄に代表される多数の荘園を寄進されたり、開発した。やがて、南都の有力権門として内外に知られるようになり、多数の僧兵を抱え、興福寺などと度々強訴を行っている。

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中世以降
東大寺は、近隣の興福寺とともに治承4年12月28日（1181年1月15日）の平重衡の兵火で壊滅的な打撃（南都焼討）を受け、大仏殿をはじめとする多くの堂塔を失った。この時、大勧進職に任命され、大仏や諸堂の再興に当たったのが当時61歳の僧・俊乗坊重源であった。重源の精力的な活動により、文治元年（1185年）には後白河法皇らの列席のもと、大仏開眼法要が行われ、建久元年（1190年）には、再建大仏殿が完成、源頼朝らの列席のもと、落慶法要が営まれた。

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その後、戦国時代の永禄10年10月10日（1567年11月10日）、三好・松永の戦いの兵火により、大仏殿を含む東大寺の主要堂塔はまたも焼失した（永禄の変参照）。仮堂が建てられたが慶長15年（1610年）の暴風で倒壊し大仏は露座のまま放置された。その後の大仏の修理は元禄4年（1691年）に完成し、再建大仏殿は公慶上人（1648-1705）の尽力や、将軍徳川綱吉や母の桂昌院をはじめ多くの人々による寄進が行われた結果、宝永6年（1709年）に完成した。この3代目の大仏殿（現存）は、高さは天平時代とほぼ同じだが、間口は天平創建時の3分の2に縮小されている。また、講堂、食堂、東西の七重塔など近世以降はついに再建されることはなく、今は各建物跡に礎石のみが残されている。


正倉院

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正倉院（しょうそういん）は、奈良市の東大寺大仏殿の北西に位置する、高床の大規模な校倉造（あぜくらづくり）倉庫で、聖武天皇・光明皇后ゆかりの品をはじめとする、天平時代を中心とした多数の美術工芸品を収蔵していた施設。「古都奈良の文化財」の一部としてユネスコの世界遺産（文化遺産）に登録されている。

概要

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元は東大寺の倉庫であったが、明治以降、国の管理下におかれ、内務省、農商務省と所管省庁は変遷し、1884年宮内省所管となった。第二次大戦後は宮内府を経て、現在は宮内庁の正倉院宝庫及び正倉院宝物を管理する施設等機関である正倉院事務所が管理している。

正倉院の宝物には日本製品、中国（唐）や西域、遠くは ペルシャなどからの輸入品を含めた絵画・書跡・金工・漆工・木工・刀剣・陶器・ガラス器・楽器・仮面など、古代の美術工芸の粋を集めた作品が多く残るほか、奈良時代の日本を知るうえで貴重な史料である正倉院文書（もんじょ）、東大寺大仏開眼法要に関わる歴史的な品や古代の薬品なども所蔵され、文化財の一大宝庫である。シルクロードの東の終点ともいわれる。

正倉院の語義

奈良時代の役所や大寺院には多数の倉が並んでいたことが記録から知られる。「正倉」とは、元来、「正税を収める倉」の意で、律令時代に各地から上納された米穀や物品などを保管するため、大蔵省をはじめとする役所に設けられたものであった。また、大寺にはそれぞれの寺領から納められた品や、寺の什器宝物などを収蔵する倉があった。これを正倉といい、正倉のある一画を塀で囲ったものを「正倉院」といった。南都七大寺にはそれぞれ正倉院があったが、のちに廃絶して東大寺のもののみが残っている。このため、「正倉院」は東大寺大仏殿北西に所在する宝庫を指す固有名詞と化している。

正倉院宝物

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756年（天平勝宝8歳）、光明皇后は、夫聖武天皇の七七忌に、天皇遺愛の品約650点と、約60種の薬物を東大寺の廬舎那仏（大仏）に奉献した。その後も光明皇后は3度にわたって、自身や聖武天皇ゆかりの品を大仏に奉献している。これらの献納品については、現存する5種類の「献物帳」と呼ばれる文書に目録が記されている。これらの宝物は正倉院に収められた。

北倉・中倉・南倉
正倉院宝庫は、北倉（ほくそう）、中倉（ちゅうそう）、南倉（なんそう）の3つに区分されている。北倉にはおもに聖武天皇・光明皇后ゆかりの品が収められ、中倉には東大寺の儀式関係品、文書記録、造東大寺司関係品などが収められていた。また、950年（天暦4年）、東大寺内にあった羂索院（けんさくいん）の双倉（ならびくら）が破損した際、そこに収められていた物品が正倉院南倉に移されている。南倉宝物には、仏具類のほか、東大寺大仏開眼会（かいげんえ）に使用された物品なども納められていた。ただし、1185年の後白河法皇による大仏再興時の開眼会に宝物の仏具類が用いられた。そのほか、長い年月の間には、修理などのために宝物が倉から取り出されることがたびたびあり、返納の際に違う倉に戻されたものなどがあって、宝物の所在場所はかなり移動している。 上述のような倉ごとの品物の区分は明治時代以降、近代的な文化財調査が行われるようになってから再整理されたものである。

「献物帳」記載の品がそのまま現存しているわけではなく、武器類、薬物、書巻、楽器などは必要に応じて出蔵され、そのまま戻らなかった品も多い。刀剣類などは恵美押勝の乱の際に大量に持ち出され、「献物帳」記載の品とは別の刀剣が代わりに返納されている。

正倉院の三倉のなかでも特に北倉は聖武天皇・光明皇后ゆかりの品を収めることから、早くから厳重な管理がなされていた。宝庫の扉の開封には勅使（天皇からの使い）が立ち会うことが必要とされていた。なお「勅封」という言葉は本来「天皇の署名入りの紙を鍵に巻きつけて施錠すること」を指す。正倉院宝庫がこの厳密な意味での「勅封」になったのは室町時代以降であるが、平安時代の各種文書記録にも正倉院を「勅封蔵」と表現しており、事実上の勅封であったと見なして差し支えないといわれる。平安時代中期には北・中・南の三倉とも勅封蔵と見なされていたが、東大寺の什器類を納めていた南倉のみは、後に勅封から綱封（東大寺別当らの寺僧組織が管理する）に改められた。1875年（明治8年）、正倉院全体が明治政府の管理下におかれてからは南倉も再び勅封となっている。

建造物としての正倉院

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校倉造、屋根は寄棟造、瓦葺。規模は正面約33.1メートル、奥行約9.3メートル、床下の柱の高さ約2.5メートルである。

建立時期は不明だが、光明皇后が夫聖武天皇の遺愛の品を大仏に奉献した756年（天平勝宝8）前後とみるのが通説である。759年（天平宝字3年）以降、宝物出納の記録が残っていることから、この年までに建立されていたことがわかる。当初の正倉院の建物構成についてはわかっておらず、記録によれば、平安末期には現存する宝庫1棟を残すのみであったらしい。

床下には10列×4列の柱を建て、その上に台輪（だいわ）と呼ぶ水平材を置く。この上に北倉と南倉は校木（あぜぎ）という断面三角形の材を20段重ねて壁体をつくり、校倉造とする。ただし、中倉のみは校倉造ではなく、柱と柱の間に厚板を落とし込んだ「板倉」で、構造が異なる。なぜ、中倉のみ構造が異なるのか、当初からこのような形式であったのかどうかについては、諸説ある。奈良時代の文書には、正倉院宝庫のことを「双倉」（そうそう、ならびくら）と称しているものがある。このことから、元来の正倉院は北側と南側の校倉部分のみが倉庫で、中倉にあたる中間部は、壁もなく床板も張らない吹き放しであったため「双倉」と呼ばれたとするのが通説である。

校倉の利点として、湿度の高い時には木材が膨張して外部の湿気が入るのを防ぎ、逆に外気が乾燥している時は木材が収縮して材と材の間に隙間ができて風を通すので、倉庫内の環境を一定に保ち、物の保存に役立ったという説があった。しかし、実際には、重い屋根荷重がかかる校木が伸縮する余地はなく、この説は否定されている。また、この工法はログハウスの丸太組み工法とほぼ同様であることから、『日本最古のログハウス』と称されることもある。

現存する奈良時代の倉庫としてはもっとも規模が大きく、また、奈良時代の「正倉」の実態を伝える唯一の遺構として、建築史的にもきわめて価値の高いものである。

校倉造の宝庫は長年、宝物を守ってきたが、1952年に鉄筋コンクリート造の東宝庫、1962年には同じく鉄筋コンクリート造の西宝庫が完成し、翌1963年、宝物類はそちらへ移された。現在、宝物の大部分は西宝庫に収納、東宝庫には修理中の品や、西宝庫に収納スペースのない、大量の染織品が収納されている。勅封はこの宝庫に施されている。


興福寺

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興福寺（こうふくじ）は、奈良県奈良市登大路町（のぼりおおじちょう）にある、南都六宗の一つ、法相宗の大本山の寺院である。南都七大寺の一つに数えられる。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。南円堂は西国三十三箇所第9番札所である。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。

起源と歴史

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創建
藤原氏の祖である藤原鎌足（614年－669年）夫人の鏡王女（かがみのおおきみ）が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、天智天皇8年（669年）山背国（山城国）山階（京都市山科区）に創建した山階寺（やましなでら）が当寺の起源である。壬申の乱のあった天武天皇元年（672年）、山階寺は藤原京に移り、地名（高市郡厩坂）をとって厩坂寺（うまやさかでら）と称した。

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和銅3年（710年）の平城遷都に際し、鎌足の子息である藤原不比等（659年－720年）は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し、「興福寺」と名付けた。この710年が実質的な興福寺の創建年といえる。中金堂の建築は平城遷都後まもなく開始されたものと見られる。

その後も、天皇や皇后、また藤原家によって堂塔が建てられ整備が進められた。不比等が没した養老4年（720年）には「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ、元来、藤原氏の私寺である興福寺の造営は国家の手で進められるようになった。

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南都北嶺
興福寺は奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、特に摂関家藤原北家との関係が深かったために手厚く保護された。平安時代には春日社の実権をもち、大和国一国の荘園のほとんどを領して事実上の同国の国主となった。その勢力の強大さは、比叡山延暦寺とともに「南都北嶺」（なんとほくれい）と称された。寺の周辺には子院と称する多くの付属寺院が建てられ、最盛期には百か院以上を数えたが、中でも天禄元年（970年）定昭の創立した一乗院と寛治元年（1087年）隆禅の創立した大乗院は皇族・摂関家の子弟が入寺する門跡寺院として栄えた。

鎌倉・室町時代には幕府は大和国に守護を置かず、興福寺がその任に当たる。文禄4年（1595年）の検地では、春日社興福寺合体の知行として2万1千余石とされた。

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平重衡の兵火による焼失
興福寺は、創建以来たびたび火災に見まわれたが、その都度再建を繰り返してきた。中でも治承4年（1180年）、源平の争いの最中、平重衡の兵火による被害は甚大であった（南都焼討）。 東大寺とともに大半の伽藍が焼失した。この時、興福寺再興に奔走したのは回禄直後に別当職に就いた信円と解脱上人貞慶であった。現存の興福寺の建物はすべてこの火災以後のものである。なお仏像をはじめとする寺宝類も多数が焼失したため、現存するものはこの火災以後の鎌倉復興期に制作されたものが多い。興福寺を拠点とした運慶ら慶派仏師の手になる仏像もこの時期に数多く作られている。

江戸時代の享保2年（1717年）の火災の時は、時代背景の変化もあって大規模な復興はなされず、この時焼けた西金堂、講堂、南大門などはついに再建されずじまいであった。

廃仏毀釈による破壊
明治元年(1868)に出された神仏分離令は、全国に廃仏毀釈の嵐を巻き起こし、春日社と一体の信仰が行われていた興福寺は直接打撃をこうむった。子院はすべて廃止、寺領は没収され、僧は春日社の神職となり、境内は塀が取り払われ、樹木が植えられて、奈良公園の一部となってしまった。一時は廃寺同然となり、五重塔、三重塔さえ売りに出る始末だった。

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行き過ぎた廃仏政策が反省されだした1881年（明治14年）、ようやく興福寺の再興が許可された。1897年（明治30年）、文化財保護法の前身である「古社寺保存法」が公布されると、興福寺の諸堂塔も修理が行われ、徐々に寺観が整備されて現代に至っている。 しかし、興福寺に塀が無く公園の中に寺院がある状態、「信仰の動線」が欠落していると称される状態は、このとき残された傷跡である。


春日大社

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春日大社（かすがたいしゃ）は、奈良県奈良市の奈良公園内にある神社である。旧称春日神社。式内社（名神大社）、二十二社の一社で、旧社格は官幣大社。全国にある春日神社の総本社である。

藤原氏の守護神である武甕槌命と経津主命、祖神である天児屋根命と比売神を祀る。四神をもって藤原氏の氏神とされ、春日神と総称される。武甕槌命が白鹿に乗ってやってきたとされることから、鹿が神使とされる。

歴史

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奈良・平城京に遷都された710年（和銅3年）、藤原不比等が藤原氏の氏神である鹿島神（武甕槌命）を春日の御蓋山に遷して祀り、春日神と称したのに始まる。社伝では、768年（神護景雲2年）に藤原永手が鹿島の武甕槌命、香取の経津主命と、枚岡神社に祀られていた天児屋根命・比売神を併せ、御蓋山の麓の四殿の社殿を造営したのをもって創祀としている。ただし、近年の境内の発掘調査により、神護景雲以前よりこの地で祭祀が行われていた可能性も出てきている。

藤原氏の隆盛とともに当社も隆盛した。平安時代初期には官祭が行われるようになった。当社の例祭である春日祭は、賀茂神社の葵祭、石清水八幡宮の石清水祭とともに三勅祭の一つとされる。850年（嘉承3年）には武甕槌命・経津主命が、940年（天慶3年）には、朝廷から天児屋根命が最高位である正一位の神階を授かった。延喜式神名帳には「大和国添上郡 春日祭神四座」と記載され、名神大社に列し、月次・新嘗の幣帛に預ると記されている。

藤原氏の氏神・氏寺の関係から興福寺との関係が深く、813年（弘仁4年）、藤原冬嗣が興福寺南円堂を建立した際、その本尊の不空絹索観音が、当社の祭神・武甕槌命の本地仏とされた。神仏習合が進むにつれ、春日大社と興福寺は一体のものとなっていった。11世紀末から興福寺衆徒らによる強訴がたびたび行われるようになったが、その手段として、春日大社の神霊を移した榊の木（神木）を奉じて上洛する「神木動座」があった。

明治4年に春日神社に改称し、官幣大社に列した。1945年（昭和21年）12月に現在の春日大社に改称した。

施設

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本殿
春日造の本殿が四殿並んで建っており、第一殿に武甕槌命、第二殿に経津主命、第三殿に天児屋根命、第四殿に比売神が祀られている。拝殿はなく、一般の参拝者は幣殿の前にて、初穂料を納めて特別拝観を申し込んだ場合は本殿前の中門から参拝することになる。

摂末社
広大な境内には多数の摂末社がある。本殿の東側には比売神の御子神として天押雲根命を祀る摂社若宮神社があり、若宮神社、夫婦大国社を始めとする本殿東側の十二社は、「福の神十二社めぐり」として古来より崇敬を集めている。

本殿廻廊の西南隅には、摂社・榎本神社（式内小社）がある。榎本神社の祭神は当地の地主神であり、元々この地で祀られていた神であるとされる。現在の祭神は猿田彦大神であるが、中世までは巨勢姫明神とされていた。


元興寺

<a href="http://ban.compora.com/images/20080213145129.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20080213145129_m.jpg" width="200" height="144" alt="古都奈良の文化財　世界文化遺産・日本　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>

元興寺 (がんごうじ)は、奈良市にある、南都七大寺の1つに数えられる寺院。蘇我馬子が飛鳥に建立した、日本最古の本格的仏教寺院である法興寺がその前身である。法興寺は平城京遷都に伴って飛鳥から新都へ移転し、元興寺となった（ただし、飛鳥の法興寺も元の場所に残り、今日の飛鳥寺となっている）。奈良時代には近隣の東大寺、興福寺と並ぶ大寺院であったが、中世以降次第に衰退して、現在は次の2つの寺院に分かれている。

(1) 奈良市中院町所在の元興寺。1977年までは「元興寺極楽坊」と称していた。西大寺の末寺で、宗派は真言律宗に属する。本尊は智光曼荼羅である。

(2) 奈良市芝新屋町所在の元興寺。東大寺の末寺で、宗派は華厳宗に属する。本尊は十一面観音である。

奈良市中院町の元興寺は「古都奈良の文化財」の一部として、世界遺産にも登録されている。上記2つの元興寺は、もともと同じ寺院の一部であるので、本項ではまとめて述べることとする。

起源と歴史

<a href="http://ban.compora.com/images/20080213145733.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20080213145733_m.jpg" width="200" height="133" alt="古都奈良の文化財　世界文化遺産・日本　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>

現在、「史跡元興寺」として指定されている地域は 奈良市中院町の「元興寺極楽坊」、同市芝新屋町の「元興寺（塔跡）」同市西新屋町の「元興寺小塔院跡」の3か所である。これらはいずれも、蘇我馬子が6世紀末、飛鳥に建立した日本最古の本格的寺院、法興寺（現在の飛鳥寺）の後身である。

和銅3年（710年）の平城京遷都に伴って、飛鳥にあった薬師寺、厩坂寺（のちの興福寺）、大官大寺（のちの大安寺）などは新都へ移転した。法興寺は養老2年（718年）平城京へ移転したが、飛鳥の法興寺も廃止はされずに元の場所に残った。通常、飛鳥にある寺を「法興寺」、平城京の方の寺を「元興寺」と称している。「法興」も「元興」も、日本で最初に仏法が興隆した寺院であるとの意である。

奈良時代の元興寺は三論宗と法相宗の道場として栄え、東大寺や興福寺と並ぶ大伽藍を誇っていた。寺域は南北4町（約440メートル）、東西2町（約220メートル）と南北に細長く、興福寺の南にある猿沢池の南方、今日「奈良町（ならまち）」と通称される地区の大部分が元は元興寺の境内であった。猿沢池南東側にある交番のあたりが旧境内の北東端、奈良市音声館（奈良市鳴川町）のあたりが旧境内の南西端にあたる。

<a href="http://ban.compora.com/images/20080213145138.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20080213145138_m.jpg" width="200" height="167" alt="古都奈良の文化財　世界文化遺産・日本　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>

奈良においては東大寺、興福寺が勢力を増す一方で、元興寺は平安時代後半あたりから徐々に衰退していった。11世紀前半の「堂舎損色検録帳」という史料によると、金堂をはじめとする元興寺の伽藍は、この頃には荒れ果てて見る影もなかったという。元興寺には奈良時代の学僧・智光が描かせた阿弥陀浄土図（智光曼荼羅）があったが、平安末期の末法思想の流行や阿弥陀信仰の隆盛とともにこの曼荼羅が信仰を集めるようになった。曼荼羅を祀る堂は「極楽坊」と呼ばれて、次第に元興寺本体とは別の寺院として発展するようになった。これが現在、奈良市中院町にある元興寺、通称元興寺極楽坊である。現存する元興寺極楽坊の本堂と禅室は、奈良時代に智光をはじめとする僧たちが住んでいた僧房を鎌倉時代に改築したものである。

室町時代の宝徳3年（1451年）、土一揆のあおりで元興寺は炎上し、五重塔などはかろうじて残ったが、金堂など主要堂宇や智光曼荼羅の原本は焼けてしまった。この頃を境に、寺は智光曼荼羅を祀る「極楽院」、五重塔を中心とする「元興寺観音堂」、それに「小塔院」の3つの寺院に分裂した。極楽院は奈良西大寺の末寺となって真言律宗寺院となり、中世以降は智光曼荼羅、弘法大師、聖徳太子などの民間信仰の寺院として栄えた。

一方、極楽院の南にある「元興寺観音堂」の方は東大寺の末寺となり、五重塔を中心とする寺院であったが、室町時代の火災に焼け残った創建遺構の五重塔と観音堂は、江戸時代末期の安政6年（1859年）についに焼失し、以後は「元興寺」の寺号は継ぐものの衰退している。

極楽院は明治以降は荒れ果て、現在国宝に指定されている本堂も1950年ころまでは床は落ち、屋根は破れて「化け物が出る」と言われたほどの荒れ方であった。第二次世界大戦中の1943年に極楽院の住職となった辻村泰圓は戦災孤児のための社会福祉事業に尽力するかたわら、境内の整備や建物の修理を進めた。1962年には辻村により境内に財団法人元興寺仏教民俗資料研究所が設立され（1978年に元興寺文化財研究所と改称）、1965年には寺宝を収蔵展示する収蔵庫が完成するなど、徐々に整備が進んだ。元興寺仏教民俗資料研究所は、本堂解体修理中に屋根裏から発見された数万点の庶民信仰資料（板塔婆など）を研究することを当初の目的として設立された。極楽院は1955年に「元興寺極楽坊」と改称、さらに1977年に「元興寺」と改称されている。


薬師寺

<a href="http://ban.compora.com/images/20080213150519.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20080213150519_m.jpg" width="132" height="200" alt="古都奈良の文化財　世界文化遺産・日本　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>

薬師寺（やくしじ）は、奈良県奈良市西ノ京町に所在する寺院であり、興福寺とともに法相宗の大本山である。南都七大寺のひとつに数えられる。本尊は薬師如来、開基（創立者）は天武天皇である。1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。現・管主は安田暎胤である。

歴史

<a href="http://ban.compora.com/images/20080213150535.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20080213150535_m.jpg" width="200" height="139" alt="古都奈良の文化財　世界文化遺産・日本　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>

薬師寺は7世紀末、飛鳥（奈良県橿原市城殿（きどの）町）の地に創建され、平城遷都後の8世紀初めに現在地に移転したものである。ただし、飛鳥の薬師寺も10世紀頃までは引き続き存続していたと見られる。

創建
『日本書紀』によれば、薬師寺は天武天皇9年（680年）、天武天皇が後の持統天皇である鵜野讃良皇后（うののさららこうごう）の病気平癒を祈願し、飛鳥の地に創建したものである。薬師寺東塔の屋上にある相輪支柱に刻まれた「東塔さつ銘」（「さつ」は木扁に「察」）にも同趣旨の記述がある。しかし、天武天皇は寺の完成を見ずに朱鳥元年（686年）没し、伽藍整備は持統天皇、文武天皇の代に引き継がれた。持統天皇2年（688年）、薬師寺にて無遮大会（むしゃだいえ）という行事が行われたことが『書紀』に見え、この頃までにはある程度伽藍が整っていたものと思われる。『続日本紀』によれば、文武天皇2年（698年）には寺の造営がほぼ完成し、僧を住まわせている。この、飛鳥の薬師寺跡は大和三山の畝傍山と香久山の中間にあたる橿原市城殿町に残り、「本薬師寺（もとやくしじ）跡」として特別史跡に指定されている。

平城移転
その後、和銅3年（710年）の平城京への遷都に際して、薬師寺は飛鳥から平城京の六条大路に面した現在地に移転した。移転の時期は長和4年（1015年）成立の『薬師寺縁起』が伝えるところによれば養老2年（718年）のことであった。『扶桑略記』天平2年（730年）3月29日条に、「始薬師寺東塔立」とあり、東塔（三重塔）が完成したのがその年のことで、その頃まで造営が続いていたものと思われる。

なお、平城京への移転後も、飛鳥の薬師寺（本薬師寺）はしばらく存続していた。史料や発掘調査の結果からは平安時代中期、10世紀ころまでは存続していたようだが、後に廃寺となった。本薬師寺跡には金堂・東塔の礎石、西塔の心礎が残り、堂塔の平面規模、金堂と塔との距離などが平城薬師寺とほぼ等しいことがわかっている。

平城京の薬師寺は天禄4年（973年）の火災と享禄元年（1528年）の筒井順興の兵火で多くの建物を失った。現在、奈良時代の建物は東塔を残すのみである。

<a href="http://ban.compora.com/images/20080213150542.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20080213150542_m.jpg" width="150" height="200" alt="古都奈良の文化財　世界文化遺産・日本　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>

移建・非移建論争
平城京の薬師寺にある東塔や本尊薬師三尊像が本薬師寺から移されたものか、平城京で新たにつくられたものかについては明治時代以来論争がある。21世紀の現在では、東塔は平城京での新築、本尊は本薬師寺からの移座とするのが、ほぼ通説となっているが、論争は完全に決着したわけではない。

11世紀成立の『薬師寺縁起』に引用される奈良時代の古縁起に「薬師寺には塔が4基あり、うち2基は本寺にある」という趣旨の記載があり、ある時期までは平城と飛鳥の両薬師寺にそれぞれ2基の塔があったと解釈されることから、町田甲一らはこれを非移建説の根拠の1つとしている。現存する東塔に、他所から解体移築した痕跡の見られないことからも、東塔については『扶桑略記』の記述どおり、平城移転後の新築と見る説が有力である。ただし、平城薬師寺の境内からは本薬師寺から出土するのと同様の古い様式の瓦も出土しており、平城薬師寺の伽藍が全て新築で、飛鳥からの移築は全くなかったとまでは言い切れない。

発掘調査の結果、平城薬師寺の廻廊は当初単廊（柱が2列）として計画されたものが、途中で複廊（柱が3列、通路が2列）に設計変更されたことが判明している。このことから、当初は本薬師寺の建物を一部移築しようとしていたものを、途中で計画変更したのではないかとする説もある。

金堂本尊薬師三尊像については、『日本書紀』に見える、「持統天皇2年（688年）、薬師寺にて無遮大会（むしゃだいえ）が行われた」との記述を重視し、この年までには造立されて、後に平城薬師寺に移されたとする説が有力である。ただし、主に様式の面から平城移転後の新造とする 説もなお根強い。

金堂・西塔などの再建
20世紀半ばまでの薬師寺には、江戸時代末期仮再建の金堂、講堂がわびしく建ち、創建当時の華麗な伽藍をしのばせるものは焼け残った東塔だけであった。1960年代以降、名物管長として知られた高田好胤（たかだこういん）が中心となって写経勧進による白鳳伽藍復興事業が進められ、1976年に金堂が再建されたのをはじめ、西塔、中門、回廊、大講堂などが次々と再建された。


唐招提寺

<a href="http://ban.compora.com/images/20080213151109.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20080213151109_m.jpg" width="200" height="150" alt="古都奈良の文化財　世界文化遺産・日本　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>

唐招提寺（とうしょうだいじ）は、奈良市五条町にある鑑真ゆかりの寺院。南都六宗の1つである律宗の総本山である。本尊は廬舎那仏、開基（創立者）は鑑真である。井上靖の小説『天平の甍』で広く知られるようになった中国・唐出身の僧鑑真が晩年を過ごした寺であり、奈良時代建立の金堂、講堂をはじめ、多くの文化財を有する。


起源と歴史
『続日本紀』等によれば、唐招提寺は唐僧・鑑真が天平宝字3年（759年）、故・新田部親王（にいたべしんのう、天武天皇第7皇子）の旧宅跡を朝廷から譲り受け、寺としたものである。寺名の「招提」は、サンスクリット由来の中国語で、元来は「四方」「広い」などの意味を表わす語であったが、「寺」「院」「精舎」「蘭若」などと同様、仏教寺院（私寺）を指す一般名詞として使われていた。つまり、本寺の寺名の由来としては、「唐僧である鑑真和上のための寺」というような意味合いであるとされている。

<a href="http://ban.compora.com/images/20080213151058.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20080213151058_m.jpg" width="200" height="126" alt="古都奈良の文化財　世界文化遺産・日本　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>

鑑真の渡日と戒律の伝来
鑑真（688年 - 763年）の生涯については、日本に同行した弟子の思託が記した『大和上伝』、それをもとにした淡海三船（おうみのみふね）の『唐大和上東征伝』、井上靖の『天平の甍』などに詳しい。

鑑真は仏教者に戒律を授ける導師「伝戒の師」として日本に招請された。「戒律」とは「規範」「きまり」といった意味で、仏教者が日常生活上守らなければならない事柄であり、一般の仏教信者に授ける「菩薩戒」と、正式の僧に授ける「具足戒」とがある。出家者が正式の僧となるためには、「戒壇」という施設で、有資格者の僧から「具足戒」を受けねばならないが、当時（8世紀前半）の日本には正式の戒壇はなく、戒律を授ける資格のある僧も不足していた。天平5年（733年）、遣唐使とともに渡唐した留学僧の普照と栄叡（ようえい）は、日本に正式の戒壇を設立するため、しかるべき導師を招請するよう、朝廷からの命を受けていた。彼らが揚州（現・江蘇省）の高僧鑑真に初めて会ったのは西暦742年のことであった。鑑真は渡日を承諾するが、当時の航海は命がけで、鑑真は足掛け12年の間に5回も渡航に失敗、5回目の航海では中国最南端の海南島まで流され、それまで行動をともにしてきた栄叡を失い、自らは失明するという苦難を味わった。753年、6回目の渡航でようやく来日に成功するが、この時も国禁を犯し、日本の遣唐使船に便乗しての渡航であった。鑑真は当時すでに66歳になっていた。

天平勝宝5年（753年）12月、薩摩（琉球ともいう）に上陸した鑑真は、翌天平勝宝6年（754年）2月、ようやく難波津（大阪）に上陸し、同年、東大寺大仏殿前で、聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇らに菩薩戒を授けた。日本で過ごした晩年の10年間のうち、前半5年間を東大寺で過ごした後、天平宝字3年（759年）、前述のように、今の唐招提寺の地を与えられた。

伽藍の整備
唐招提寺の寺地は平城京の右京五条二坊に位置した新田部親王邸跡地で、広さは4町であった。境内の発掘調査の結果、新田部親王邸と思われる前身建物跡が検出されている。また、境内から出土した古瓦のうち、単純な幾何学文の瓦（重圏文軒丸瓦と重弧文軒平瓦の組み合わせ）は、新田部親王邸のものと推定されている。寺内に現存する2棟の校倉造倉庫のうち、経蔵は新田部親王宅の倉庫を改造したものと思われるが、他に新田部親王時代の建物はない。

『招提寺建立縁起』（『諸寺縁起集』所収）に、寺内の建物の名称とそれらの建物は誰の造営によるものであるかが記されている。それによると、金堂は鑑真の弟子でともに来日した如宝（? - 815年）の造営、食堂（じきどう）は藤原仲麻呂家の施入（寄進）、羂索堂（けんじゃくどう）は藤原清河家の施入であった。また、講堂は、平城宮の東朝集殿を移築改造したものであった。金堂は8世紀後半の宝亀年間（770 - 780年）の建築と推定され、この推定通りとすれば鑑真の没後に建立されたものである。

伽藍の造営は鑑真の弟子の如宝、孫弟子の豊安（ぶあん）の代にまで引き継がれた。平安時代以後、一時衰退したが、鎌倉時代の僧・覚盛（かくじょう、1193－1249）によって復興された。


平城宮

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平城宮（へいじょうきゅう）は710年に遷都した奈良の都平城京の大内裏。平城京の北端に置かれ、天皇の住まいである内裏と、儀式を行う朝堂院、役人が執務を行う官衙（役所）から成り、約120haを占めていた。

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平安京遷都後は放棄され、農地となっていた。明治時代に建築史家、関野貞が田んぼの中にある小高い芝地が大極殿（第二次）の基壇であることを発見、平城宮址（へいじょうきゅうし）は1922年に国の史跡に指定された（後に特別史跡）。のちに址（し・あと）が常用漢字外であるため平城宮跡（へいじょうきゅうせき）と書かれるようになる。

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春日山原始林

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春日山原生林（かすがやまげんせいりん）は、春日大社の山として神聖視され、樹木伐採が長らく（千年以上に渡り）禁じられてきたため、森林が極相に達した原生林が広がっている地域である。

市街地（奈良市）に近接して原生林が存在することは極めて珍しく、保護の対象にするべきとして、特別天然記念物に指定されており、うち春日山の照葉樹林は国の名勝にも指定されている｡また、古都奈良の文化財の一部として世界遺産にも指定されている。

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         <pubDate>Wed, 13 Feb 2008 14:03:32 +0900</pubDate>
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      </item>
      
      <item>
         <title>古都京都の文化財　世界文化遺産</title>
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         <description><![CDATA[
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古都京都の文化財（こときょうとのぶんかざい）は、京都府京都市・宇治市、滋賀県大津市に存在する寺院等の総称。1994年にユネスコの世界遺産（文化遺産）として登録された。


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賀茂別雷神社 （上賀茂神社）

<a href="http://ban.compora.com/images/20080110210037.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20080110210037_m.jpg" width="200" height="150" alt="古都京都の文化財　世界文化遺産・日本　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>

賀茂別雷神社（かもわけいかづちじんじゃ）は、京都市北区にある神社である。通称上賀茂神社（かみがもじんじゃ）。式内社、山城国一宮、二十二社の一社で、旧社格は官幣大社。

賀茂御祖神社（下鴨神社）とともに古代の賀茂氏の氏神を祀る神社であり、賀茂神社（賀茂社）と総称される。賀茂神社両社の祭事である葵祭で有名である。

賀茂氏の祖神である賀茂別雷命（かもわけみかづちのみこと）を祀る。「別雷」は「若雷」の意味で、若々しい力に満ちた雷（神鳴り）の神という意味である。

由緒

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創建については諸説ある。社伝では、神武天皇の御代に賀茂山の麓の御阿礼所に賀茂別雷命が降臨したと伝える。『山城国風土記』逸文では、玉依日売（たまよりひめ）が加茂川の川上から流れてきた丹塗矢を床に置いたところ懐妊し、それで生まれたのが賀茂別雷命で、兄玉依日古（あにたまよりひこ）の子孫である賀茂県主の一族がこれを奉斎したと伝える。丹塗矢の正体は、乙訓神社の火雷神とも大山咋神ともいう。玉依日売とその父の賀茂建角身命は下鴨神社に祀られている。

国史では、文武天皇2年（698年）3月21日、賀茂祭の日の騎射を禁じたという記事が初出で、他にも天平勝宝2年（750年）に御戸代田一町が寄進されるなど、朝廷からの崇敬を受けてきたことがわかる。794年の平安遷都の後は王城鎮護の神社としてより一層の崇敬を受け、大同2年（807年）には最高位である正一位の神階を受け、賀茂祭は勅祭とされた。延喜式神名帳では名神大社に列し、名神・月次・相嘗・新嘗の各祭の幣帛に預ると記載されている。弘仁元年（810年）以降約400年にわたって、伊勢神宮の斎宮にならった斎院が置かれ、皇女が斎王として奉仕した。

明治の社格制度でも、官幣大社の筆頭という、伊勢神宮の次位の神社とされ、明治16年には勅祭社に定められた。


賀茂御祖神社 （下鴨神社）

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賀茂御祖神社（かもみおやじんじゃ）は、京都市左京区にある神社である。通称下鴨神社（しもがもじんじゃ）。式内社、山城国一宮、二十二社の一社で、旧社格は官幣大社。

賀茂別雷神社（上賀茂神社）とともに古代の賀茂氏の氏神を祀る神社であり、賀茂神社（賀茂社）と総称され、両社をもって一社のような扱いをされてきた。賀茂神社両社の祭事である葵祭で有名である。

上賀茂神社の祭神である賀茂別雷命の母の玉依姫命および玉依姫命の父の賀茂建角身命を祀ることから「賀茂御祖神社」と呼ばれる。八咫烏は賀茂建角身命の化身である。

由緒

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社伝では、神武天皇の御代に御蔭山に祭神が降臨したと伝える。一説には、天平のころに上賀茂神社から分置されたとされる。上賀茂神社とともに奈良時代以前から朝廷の崇敬を受けた。平安遷都の後はより一層の崇敬を受けるようになり、大同2年（807年）には最高位である正一位の神階を受け、賀茂祭は勅祭とされた。延喜式神名帳では名神大社に列し、名神・月次・相嘗・新嘗の各祭の幣帛に預ると記載されている。弘仁元年（810年）以降約400年にわたり、斎院が置かれ皇女が斎王として賀茂社に奉仕した。


教王護国寺 （東寺）

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東寺（とうじ）は、京都市南区九条町にある、空海（弘法大師）ゆかりの寺院である。宗派は東寺真言宗総本山。山号は八幡山、本尊は薬師如来である。「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。

東寺の正式名として金光明四天王教王護国寺秘密伝法院と弥勒八幡山総持普賢院の2つの名称がある。

宗教法人としての公称は教王護国寺（きょうおうごこくじ、詳名は金光明四天王教王護国寺秘密伝法院）本項では創建以来使われてきた歴史的名称である「東寺」の表記を用いる。

概要
8世紀末、平安京の正門にあたる羅城門の東西に「東寺」と「西寺」（さいじ）という2つの寺院の建立が計画された。これら2つの寺院は、それぞれ平安京の左京と右京を守る王城鎮護の寺、さらには東国と西国とを守る国家鎮護の寺という意味合いを持った官立寺院であった。このうち東寺は後に弘法大師空海に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。中世以降の東寺は弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになり、21世紀の今日も京都の代表的な名所として存続している。何度かの火災を経て、東寺には創建当時の建物は残っていないが、南大門、金堂、講堂、食堂（じきどう）が南から北へ一直線に整然と並ぶ伽藍配置や、各建物の規模は平安時代のままである。なお、羅城門を挟んで対称的な位置にあった西寺は早い時期に衰退し、現在は京都市南区唐橋の児童公園内に「史跡西寺跡」の碑があり、付近に「西寺」の寺名のみを継いだ小寺院が残るのみである。

「東寺」と「教王護国寺」
この寺には「東寺」および「教王護国寺」という2つの名称がある。「教王」とは「王を教化する」との意味であり、「教王護国寺」という名称には、国家鎮護の密教寺院という意味合いが込められている。また、「東寺」という名称は単なる通称・俗称ではなく、創建当時から使用されてきた歴史的名称である。平安時代から21世紀に至るまで、この寺はもっぱら「東寺」と称され、「教王護国寺」という名称は実際にはほとんど使われてこなかった。「教王護国寺」という名称は平安時代の記録類には一切見えず、正式の文書におけるこの寺号の初出は仁治元年（1240年）である。後宇多天皇直筆の国宝「東寺興隆条々事書」（延慶8年＝1308年）や、南北朝時代に成立した東寺の正式の記録書である「東宝記」にも明確に「東寺」と表記されている。 　しかし、宗教法人としての公称は「教王護国寺」であり、たとえば、五重塔の国宝指定官報告示の際の指定名称は「教王護国寺五重塔」となっている。また、密教辞典においても、「教王護国寺」の名称で説明がある。つまり現在の寺院の名称としては、教王護国寺を用いることが正式である。

歴史

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『東宝記』（南北朝時代に成立した、東寺の記録書）の記載によれば、東寺は平安京遷都後まもない延暦15年（796年）、藤原伊勢人という人物が造寺長官（建設工事責任者）となって建立したという。藤原伊勢人という人物については、公式の史書や系譜にはその名が見えないことから、実在を疑問視する向きもあるが、東寺では古くからこの796年を創建の年としている。それから20数年後の弘仁14年（823年）、真言宗の宗祖である空海は、嵯峨天皇から東寺を賜った。この時から東寺は国家鎮護の寺院であるとともに、真言密教の根本道場となった。

弘法大師空海（774年－835年）は、讃岐国（香川県）出身の僧。真言宗の開祖であり、東寺と高野山（金剛峯寺）の基礎を築いた実在の人物であるが、後世には空海自身が「お大師様」として信仰の対象となり、なかば伝説化された存在となっている。30歳頃までの青年期には奈良の寺々で学問にはげみ、山林に分け入って修行していた無名の僧であった空海は、延暦23年（804年）、留学生（るがくしょう）として唐に渡った。彼は当時の唐の都・長安（現・西安）で青竜寺の恵果和尚に師事し、密教の奥義の伝授を受け、2年後の大同元年（806年）に帰国した。空海が、若い頃に修行したことのある高野山を下賜されたのは弘仁7年（816年）のことであり、その7年後の弘仁14年（823年）に東寺を下賜されている。

東寺は平安後期には一時期衰退するが、鎌倉時代からは弘法大師信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として、皇族から庶民まで広く信仰を集めるようになる。中でも空海に深く帰依したのは後白河法皇の皇女である宣陽門院（1181年-1252年）であった。宣陽門院は霊夢のお告げに従い、東寺に莫大な荘園を寄進した。また、「生身供」（しょうじんく、空海が今も生きているがごとく、毎朝食事を捧げる儀式）や「御影供」（みえく、毎月21日の空海の命日に供養を行う）などの儀式を創始したのも宣陽門院であった。空海（弘法大師）が今も生きているがごとく朝食を捧げる「生身供」の儀式は、21世紀の今日も毎日早朝6時から東寺の西院御影堂で行われており、善男善女が参列している。また、毎月21日の御影供の日には東寺境内に骨董市が立ち「弘法市」「弘法さん」として親しまれている。

中世以後の東寺は後宇多天皇、後醍醐天皇、足利尊氏など、多くの貴顕や為政者の援助を受けて栄えた。文明18年（1486年）の火災で主要堂塔のほとんどを失うが、豊臣家、徳川家などの援助により、金堂、五重塔などが再建されている。


清水寺

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清水寺（きよみずでら）は、京都府京都市東山区清水にある寺院。山号を音羽山と称する。本尊は千手観音、開基（創立者）は延鎮上人である。宗派はもと法相宗に属したが現在は独立して北法相宗大本山を名乗る。

清水寺は、金閣寺（鹿苑寺）、嵐山などと並ぶ、京都でも指折りの観光名所で、季節を問わず多くの参詣人で賑わっている。また、石山寺（滋賀県大津市）、長谷寺（奈良県桜井市）などと並び、日本でも有数の観音霊場として古くから知られ、平安時代以来、文学作品などにもたびたび登場する著名寺院である。

起源と歴史

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広隆寺、鞍馬寺とともに、平安京遷都以前からの歴史をもつ、京都では数少ない寺院の1つである。清水寺の縁起はさまざまな伝本があり、『今昔物語集』『扶桑略記』などにも清水寺草創伝承が載せられている。これらによれば、草創縁起は大略次のとおりである。宝亀9年（778年）、大和国子島寺（奈良県高市郡高取町に現存）の僧・延鎮上人が、夢のお告げで霊泉を訪ねてたどりついたのが、今、清水寺の建つ音羽山であった。そこにはこの山に篭って数百年も修行を続けているという行叡居士（ぎょうえいこじ）という修行者（観音の化身ともいう）がいた。行叡は「自分はこれから東国へ旅立つので、後を頼む」と言い残し、去っていった。延鎮は、行叡居士が残していった霊木に観音像を刻み、草庵に安置した。これが清水寺のはじまりという。

その2年後の宝亀11年（780年）、鹿を捕えようとして音羽山に入り込んだ坂上田村麻呂（758‐811）は、修行中の延鎮に出会った。田村麻呂は妻の高子の病気平癒のため、薬になる鹿の生き血を求めてこの山に来たのであるが、延鎮より殺生の罪を説かれ、観音に帰依して観音像を祀るために自邸を本堂として寄進したという。後に征夷大将軍となった田村麻呂は、観音の加護の賜物か、無事東国の蝦夷を平定し、都に帰ることができた。延暦17年（798年）、延鎮と田村麻呂は協力して本堂を大規模に改築し、観音像の脇侍として地蔵菩薩と毘沙門天の像を造り、ともに祀ったという 以上の話には細かい点については異伝もある。創建の年については宝亀11年（780年）でなく延暦17年（798年）とする場合もあり、延鎮が最初に分け入ったのは木津川の上流の山で、平城京遷都に際して今の音羽山に移ったとする話もある。これらの話は、根拠のない伝説として無視すべきではなく、何らかの史実をもとにしていると思われ、その根幹には日本古来の山岳信仰、水源信仰があると思われる。

延暦24年（805年）に坂上田村麻呂が寺地を賜り、弘仁元年（810年）、嵯峨天皇の勅許を得て公認の寺院となったことは史実とされ、この頃に本格的な寺観が整ったようである。

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清水寺は『源氏物語』、『枕草子』、『更級日記』、『梁塵秘抄』などの古典文学に言及されている。『枕草子』は、「さはがしきもの」の例として清水寺の縁日の日を挙げており、平安時代、既に多くの参詣者を集めていたことが伺われる。近世には浄瑠璃、歌舞伎などにも清水寺が登場する。

清水寺は、京都では珍しい法相宗（南都六宗の1つ）寺院で、長らく興福寺の支配下にあった。本堂をはじめとする伽藍はたびたび火災にあっており、現在の本堂は寛永10年（1633年）、徳川家光の寄進による再建である。他の諸堂も多くはこの年に再建されている。


延暦寺

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延暦寺（えんりゃくじ）は、滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院。延暦寺の名より比叡山、また叡山（えいざん）と呼ばれることが多い。京都の北にあったので北嶺（ほくれい）とも称された。住職（貫主）は天台座主（てんだいざす）と呼ばれ、末寺を統括する。

平安時代初期の僧侶最澄（767年 - 822年）により開かれた日本天台宗の本山寺院である。高野山金剛峯寺とならんで平安仏教の中心であった。天台法華の教えのほか、密教、禅（止観）、念仏も行なわれ仏教の総合大学の様相を呈し、平安時代には皇室や貴族の尊崇を得て大きな力を持った。特に密教による加持祈祷は平安貴族の支持を集め、真言宗の東寺の密教（東密）に対して延暦寺の密教は「台密」と呼ばれ覇を競った。

「延暦寺」とは比叡山の山上から東麓にかけた境内に点在する東塔（とうどう）、西塔（さいとう）、横川（よかわ）など、三塔十六谷の堂塔の総称である。延暦7年（788年）に最澄が一乗止観院という草庵を建てたのが始まりである。開創時の年号をとった延暦寺という寺号が許されるのは、最澄没後の弘仁14年（824年）のことであった。

延暦寺は数々の名僧を輩出し、日本天台宗の基礎を築いた円仁、円珍、融通念仏の開祖良忍、浄土宗の開祖法然、浄土真宗の開祖親鸞、臨済宗の開祖栄西、曹洞宗の開祖道元、日蓮宗の開祖日蓮など、新仏教の開祖や、日本仏教史上著名な僧の多くが若い日に比叡山で修行していることから、「日本仏教の母山」とも称されている。比叡山は文学作品にも数多く登場する。

また、「12年籠山行」「千日回峯行」などの厳しい修行が現代まで続けられており、日本仏教の代表的な聖地として、ユネスコの世界文化遺産にも登録されている。

歴史（起源～大乗戒壇設立）
前史
比叡山は、『古事記』にもその名が見える山で、古代から山岳信仰の山であったと思われる。東麓の坂本にある日吉大社には、比叡山の地主神である大山咋神が祀られている。延暦寺は、延暦7年（788年）、最澄が現在の根本中堂の地に営んだ小堂がその起源である。

最澄
最澄は俗名を三津首広野（みつのおびとひろの）といい、天平神護2年（766年）、近江国滋賀郡（滋賀県大津市）に生まれた（生年は767年説もある）。15歳の宝亀11年（780年）、近江国分寺の僧・行表のもとで得度（出家）し、最澄と名乗る。20歳の延暦4年（785年）、奈良の東大寺で受戒（正式の僧となるための戒律を授けられること）し、正式の僧となった。青年最澄は、思うところあって、奈良の大寺院での安定した地位を求めず、郷里に近い比叡山にこもって修行と経典研究に明け暮れた。最澄は数ある経典の中でも法華経の教えを最高のものと考え、中国の天台大師智顗（ちぎ）の著述になる「法華三大部」（「法華玄義」、「法華文句」、「摩訶止観」）を研究した。

延暦7年（788年）、最澄は現在の根本中堂の位置に薬師堂、文殊堂、経蔵からなる小規模な寺院を建立し、一乗止観院と名付けた。この寺は比叡山寺とも呼ばれ、年号をとった「延暦寺」という寺号が許されるのは、最澄の没後、弘仁14年（824年）のことであった。時の桓武天皇は最澄に帰依し、天皇やその側近である和気氏の援助を受けて、比叡山寺は京都の鬼門（北東）を護る国家鎮護の道場として次第に栄えるようになった。

延暦21年（802年）、最澄は還学生（げんがくしょう、短期海外研修生）として、唐に渡航することが認められ。延暦23年（804年）、遣唐使船で唐に渡った。最澄は、霊地・天台山におもむき、天台大師智顗（ちぎ）直系の道邃（どうずい）和尚から天台教学と大乗菩薩戒、行満座主から天台教学を学んだ。また、越州（紹興）の龍興寺では順暁阿闍梨より密教、翛然（しゃくねん）禅師より禅を学んでいる。このように天台教学、戒律、密教、禅の4つの思想をともに学び、日本に伝えた（四宗相承）ことが最澄の学問の特色で、延暦寺は総合大学としての性格を持っていた。後に延暦寺から浄土教や禅宗の宗祖を輩出した源がここにあるといえる。

大乗戒壇の設立
延暦25年（806年）、日本天台宗の開宗が正式に許可されるが、仏教者としての最澄が生涯かけて果たせなかった念願は、比叡山に大乗戒壇を設立することであった。大乗戒壇を設立するとは、すなわち、奈良の旧仏教から完全に独立して、延暦寺において独自に僧を養成することができるようにしようということである。最澄の説く天台の思想は「一向大乗」すなわち、すべての者が菩薩であり、成仏（悟りを開く）することができるというもので、奈良の旧仏教の思想とは相容れなかった。当時の日本では僧の地位は国家資格であり、国家公認の僧となるための儀式を行う「戒壇」は日本に3箇所（奈良・東大寺、筑紫・観世音寺、下野・薬師寺）しか存在しなかったため、天台宗が独自に僧の養成をすることはできなかったのである。最澄は自らの仏教理念を示した『山家学生式』（さんげがくしょうしき）の中で、比叡山で得度（出家）した者は12年間山を下りずに籠山修行に専念させ、修行の終わった者はその適性に応じて、比叡山で後進の指導に当たらせ、あるいは日本各地で仏教界のリーダーとして活動させたいと主張した。このような菩薩僧を養成するための大乗戒壇の設立は、822年、最澄の死後7日目にしてようやく許可となった。

歴史（平安時代から鎌倉時代）

円仁と円珍
大乗戒壇設立後の比叡山は、日本仏教史に残る数々の名僧を輩出した。円仁（慈覚大師、794－864）と円珍（智証大師、814－891）はどちらも唐に留学して多くの仏典を持ち帰り、比叡山の密教の発展に尽くした。

なお、比叡山の僧は、後に円仁派と円珍派に分かれて激しく対立するようになった。正暦4年（993年）、円珍派の僧約千名は山を下りて園城寺（三井寺）に立てこもった。以後、「山門」（円仁派、延暦寺）と「寺門」（円珍派、園城寺）は対立・抗争を繰り返し、こうした抗争に参加し、武装化した法師の中から自然と僧兵が現われてきた。

名僧の輩出
平安から鎌倉時代にかけて延暦寺からは名僧が輩出した。円仁、円珍の後には「元三大師」の別名で知られる良源（慈恵大師、912－985）は延暦寺中興の祖として知られ、火災で焼失した堂塔伽藍の再建、寺内の規律維持、学業の発展に尽くした。

また、「往生要集」を著し、浄土教の基礎を築いた恵心僧都源信や、融通念仏宗の開祖、良忍も現れた。

平安末期から鎌倉時代にかけてはいわゆる鎌倉新仏教の祖師たちが比叡山を母体として独自の教えを開いていった。

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武装化
延暦寺の武力は年を追うごとに強まり、強大な権力で院政を行った白河法皇は「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ朕が心にままならぬもの」と言っている。山は当時、一般的には比叡山のことであり、山法師とは延暦寺の僧兵のことである。つまり、強大な権力を持ってしても制御できないものと例えられたのである。延暦寺は自らの意に沿わぬことが起こると、僧兵たちが神輿（当時は神仏混交であり、神と仏は同一であった）をかついで強訴するという手段で、時の権力者に対し自らの言い分を通していた。このように、延暦寺はその権威に伴う武力があり、また物資の流通を握ることによる財力をも持っており、時の権力者を無視できる一種の独立国のような状態であった。 延暦寺の僧兵の力は奈良興福寺のそれと並び称せられ南都北嶺と恐れられた。

歴史（焼失と復興）

足利義教
初めて延暦寺を制圧しようとした権力者は、室町幕府六代将軍の足利義教である。義教は将軍就任前は義円と名乗り、天台座主として比叡山側の長であったが、還俗・将軍就任後は比叡山と対立した。永享7年（1435年）、度重なる叡山制圧の機会にことごとく和議を（諸大名から）薦められ、制圧に失敗していた足利義教は、謀略により延暦寺の有力僧を誘い出し斬首した。これに反発した延暦寺の僧侶たちは、根本中堂に立てこもり義教を激しく非難した。しかし、義教の姿勢はかわらず、絶望した僧侶たちは2月、根本中堂に火を放って焼身自殺した。当時の有力者の日記には 山門惣持院炎上（満済准后日記） などと記載されており、根本中堂の他にもいくつかの寺院が全焼、あるいは半焼したと思われる。また、本尊薬師三体焼了（大乗院日記目録） の記述の通り、このときに円珍以来の本尊もほぼ全てが焼失している。同年8月、義教は焼失した根本中堂の再建を命じ、諸国に段銭を課して数年のうちに竣工した。また、宝徳2年（1450年）5月16日に、わずかに焼け残った本尊の一部から本尊を復元し、根本中堂に配置している。なお、義教は延暦寺の制圧に成功したが、彼自身が殺されることによって延暦寺は再び武装し僧を軍兵にしたて数千人の僧兵軍に強大化させ独立国状態に戻った。

細川政元
戦国時代に入っても延暦寺は独立国状態を維持していたが、明応8年(1499年)、管領細川政元が、対立する前将軍足利義稙の入京と呼応しようとした延暦寺を攻めたため、再び根本中堂は灰燼に帰した。

織田信長
また戦国末期に織田信長が京都周辺を制圧し、将軍足利義昭との政治的対立を起こすと、延暦寺は義昭側について浅井・朝倉連合軍をかくまうなど、反信長の行動を起こした。元亀2年(1571年)、延暦寺の僧兵四千人が強大な武力と権力もつ僧による仏教政治腐敗で戦国統一の障害になるとみた信長は、延暦寺に武装解除するよう再三通達をし、これを断固拒否されたのを受けて9月12日、延暦寺を取り囲み焼き討ちした。これにより延暦寺の堂塔はことごとく炎上し、多くの僧兵や僧侶が殺害された。この事件については、京から比叡山の炎上の光景がよく見えたこともあり、山科言継など公家や商人の日記や、イエズス会の報告などにはっきりと記されている（ただし、山科言継の日記によれば、この前年の10月15日に浅井軍と見られる兵が延暦寺西塔に放火したとあり、延暦寺は織田・浅井双方の圧迫を受けて進退窮まっていたとも言われている）。

再建　
信長の死後豊臣秀吉や徳川家康らによって各僧坊は再建された。根本中堂は三代将軍徳川家光が再建している。家康の死後、天海僧正により江戸の鬼門鎮護の目的で上野に東叡山寛永寺が建立されてからは、天台宗の宗務の実権は江戸に移った。

比叡山宗教者サミット
昭和62年（1987年）8月3日、4日両日、比叡山開創1200年を記念して天台座主山田恵諦の呼びかけで世界の宗教指導者が比叡山に集い、比叡山宗教者サミットが開催された。その後も毎年8月、これを記念して比叡山で「世界宗教者平和の祈り」が行なわれている。


醍醐寺

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醍醐寺（だいごじ）は、京都府京都市伏見区醍醐東大路町にある真言宗醍醐派総本山の寺院。山号を醍醐山（深雪山とも）と称する。本尊は薬師如来、開基（創立者）は理源大師聖宝（しょうぼう）である。古都京都の文化財の一部として世界遺産に登録されている。伏見区東方に広がる醍醐山（笠取山）に200万坪以上の広大な境内をもつ寺院である。豊臣秀吉による「醍醐の花見」の行われた地としても知られる。

歴史

<a href="http://ban.compora.com/images/20080110215018.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20080110215018_m.jpg" width="200" height="150" alt="古都京都の文化財　世界文化遺産・日本　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>

醍醐寺の創建は貞観16年（874年）、空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝が准胝観音（じゅんていかんのん）並びに如意輪観音を笠取山頂上に迎えて開山、聖宝は同山頂付近を「醍醐山」と名付けた。

醍醐寺は山深い醍醐山頂上一帯を中心に、多くの修験者の霊場として発展した後（この場所を「上醍醐」と呼称する）、醍醐天皇は醍醐寺を自らの祈願寺とすると共に手厚い庇護を掛け、その圧倒的な財力によって醍醐山麓の広大な平地に大伽藍「下醍醐」が発展することになる。

その後応仁の乱など相次ぐ戦争で下醍醐は荒廃し、五重塔しか残らないありさまであった。しかし豊臣秀吉による「醍醐の花見」をきっかけに紀州などからの寺院建築の移築や三宝院の建設などにより今日見るような姿となっている。

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1939年夏、上醍醐を襲った山火事で短時間の間に、経蔵など点在する建築が焼失した。
1995年1月17日に発生した兵庫県南部地震の影響で、五重塔と金堂の漆喰がはがれた。


仁和寺

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仁和寺（にんなじ）は、京都府京都市右京区御室（おむろ）にある真言宗御室派総本山の寺院である。山号を大内山と称する。正式名称を旧御室御所跡仁和寺という。本尊は阿弥陀如来、開基（創立者）は宇多天皇である。皇室とゆかりの深い寺で、出家後の宇多法皇が住したことから「御室御所」（おむろごしょ）の別名がついた。御室は桜の名所としても知られ、春の桜と秋の紅葉の時期は多くの参拝者でにぎわう。また、徒然草に登場する「仁和寺にある法師」の話は著名である。

今日でも国内や外国人の参拝客・観光客の多く訪れる史跡であり、旧御室御所にて茶の湯を振舞う(有料)茶室も用意されている。

起源と歴史

<a href="http://ban.compora.com/images/20080110215420.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20080110215420_m.jpg" width="200" height="132" alt="古都京都の文化財　世界文化遺産・日本　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>

仁和寺は光孝天皇の勅願で仁和2年（886年）に建て始められたが、同天皇は寺の完成を見ずに翌年崩御した。遺志を引き継いだ宇多天皇によって、仁和4年（888年）に落成し、「西山御願寺」と称されたが、やがて年号をとって仁和寺と号した。宇多天皇は出家後、仁和寺伽藍の西南に「御室」（おむろ）と呼ばれる僧坊を建てて住んだため、当寺には「御室(仁和寺)御所」の別称がある。なお、「御室」の旧地には現在、「仁和寺御殿」と称される御所風の建築群が建つ。御所跡地が国の史跡に指定されている。

仁和寺はその後も皇族や貴族の保護を受け、明治時代に至るまで、皇子や皇族が歴代の門跡（住職）を務め、門跡寺院の筆頭として仏教各宗を統括していた。室町時代にはやや衰退し、応仁の乱（1467年-1477年）で伽藍は全焼した。近世になって、寛永年間（1624年-1644年）、徳川幕府により伽藍が整備された。また、寛永年間の皇居建て替えに伴い、旧皇居の紫宸殿、清涼殿、常御殿などが仁和寺に下賜され、境内に移築されている（現在の金堂は旧紫宸殿）。


平等院

<a href="http://ban.compora.com/images/20080110220223.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20080110220223_m.jpg" width="200" height="105" alt="古都京都の文化財　世界文化遺産・日本　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>

平等院（びょうどういん）は、京都府宇治市にある藤原氏ゆかりの寺院。平安時代後期・11世紀の建築、仏像、絵画、庭園などを今日に伝え、「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。山号を朝日山と称する。宗派は17世紀以来浄土宗と天台宗を兼ね、現在は特定の宗派に属さない単立の仏教寺院となっている。本尊は阿弥陀如来、開基は藤原頼通、開山は明尊である。

<a href="http://ban.compora.com/images/20080110215834.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20080110215834_m.jpg" width="200" height="134" alt="古都京都の文化財　世界文化遺産・日本　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>

歴史

<a href="http://ban.compora.com/images/20080110215933.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20080110215933_m.jpg" width="200" height="133" alt="古都京都の文化財　世界文化遺産・日本　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>

東岸は現世、西岸は来世、すなわち阿弥陀仏のいる西方極楽浄土を表象する。京都南郊の宇治の地は、『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台であり、平安時代初期から貴族の別荘が営まれていた。現在の平等院の地は、9世紀末頃、光源氏のモデルとも言われる左大臣である嵯峨源氏の源融（みなもと の とおる）が営んだ別荘だったものが宇多天皇に渡り、天皇の孫である源重信を経て長徳4年（998年）、関白藤原道長の別荘「宇治殿」となったものである。道長は万寿4年（1027年）没し、その子の関白藤原頼通は永承7年（1052年）、宇治殿を寺に改めた。これが平等院の始まりである。創建時の本堂は、鳳凰堂の北方、宇治川の岸辺近くにあり大日如来を本尊としていたが、翌天喜元年（1053）には、西方極楽浄土をこの世に出現させたような阿弥陀堂（現・鳳凰堂）が建立された。

平安時代後期、日本では「末法思想」が広く信じられていた。釈尊の入滅（一般で言う「死去」）から2,000年目以降は、仏法がすたれ、天災人災が続き、世の中は乱れるとする思想である。平等院が創建された永承7年（1052年）は、当時の思想ではまさに「末法」の元年に当たっていた。

飛鳥・奈良・平安前期に広まった仏教は、現世の幸せを願うタイプであった。平等院創建の頃は、念仏を祈ることで乱れた世の中から逃れ来世での幸福を祈るタイプ（浄土教）が流行した。阿弥陀如来は極楽浄土を象徴するものである。また、平等院の庭と建物は極楽浄土をあらわしており「浄土庭園」と言う。

平安時代後期の京都では、平等院以外にも皇族・貴族による大規模寺院の建設が相次いでいた。藤原道長は寛仁4年（1020年）、無量寿院（のちの法成寺）を建立、また11世紀後半から12世紀にかけては白河天皇勅願の法勝寺を筆頭に、尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺、延勝寺のいわゆる「六勝寺」が今の京都市左京区岡崎あたりに相次いで建立された。しかし、歴史書に名をとどめるこれらの大伽藍も今は跡形もなく、平安時代の貴族が建立した寺院が建物、仏像、壁画、庭園まで含めて残存するという点で、平等院はかけがえのない存在となっている。

現在の平等院
現在の平等院は、浄土宗の浄土院と、天台宗系の最勝院（ともに鳳凰堂の西側にある）という2つの寺院が共同で管理している。浄土院は明応年間（1492－1501年）、最勝院は承応3年（1654年）の創始であり、平等院が浄土・天台両宗の共同管理となったのは、天和元年（1681年）、寺社奉行の裁定によるものである。

1990年代以降、庭園の発掘調査・復元、鳳凰堂堂内装飾のコンピュータ・グラフィックスによる再現などが行われている。2001年にはそれまでの「宝物館」に代わり、「平等院ミュージアム鳳翔館」がオープンした。建築家栗生明は、鳳翔館（新建築2001年9月号）の設計で、日本芸術院賞を受賞している。

1996年から1997年にかけて、平等院の裏手に15階建てのマンションが建ち、鳳凰堂の背景になってしまっている。創建当初からの風致が大きく損なわれたため、景観規制条例の強化の動きが出るなど、論議を呼んだ。


宇治上神社

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宇治上神社 （うじがみじんじゃ）は、京都府宇治市にある神社。世界文化遺産「古都京都の文化財」の構成要素。

菟道稚郎子命（うじのわきのいらつこのみこと）・応神天皇・仁徳天皇を祀る。宇治神社と対をなす。

歴史

<a href="http://ban.compora.com/images/20080110220432.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20080110220432_m.jpg" width="200" height="133" alt="古都京都の文化財　世界文化遺産・日本　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>

起源は必ずしもはっきりしない。すぐ近くに宇治神社があり、明治維新前は両方を合わせて宇治離宮明神、八幡社と呼ばれ、宇治神社を下社・若宮とするのに対して、宇治上神社は上社・本宮と呼ばれている。延喜式神名帳には「山城国宇治郡 宇治神社二座」とあり、それぞれ宇治神社・宇治上神社を指している。近くに平等院ができるとその鎮守社とされた。

2004年2月、奈良文化財研究所・宇治市などの年輪年代測定調査によれば、本殿は1060年ごろのものとされ、現存最古の神社建築であることが裏付けられるとともに、1052年創建の平等院との深い関連性が考えられる。


高山寺

<a href="http://ban.compora.com/images/20080110220827.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20080110220827_m.jpg" width="200" height="150" alt="古都京都の文化財　世界文化遺産・日本　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>

高山寺（こうざんじ）は、京都市右京区梅ヶ畑栂尾（とがのお）町にある寺院。栂尾は京都市街北西の山中に位置する。高山寺は山号を栂尾山と称し、宗派は真言宗御室派系の単立である。創建は奈良時代と伝えるが、実質的な開基（創立者）は、鎌倉時代の明恵である。「鳥獣人物戯画」をはじめ、絵画、典籍、文書など、多くの文化財を伝える寺院として知られる。

起源と歴史

<a href="http://ban.compora.com/images/20080110221002.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20080110221002_m.jpg" width="200" height="149" alt="古都京都の文化財　世界文化遺産・日本　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>

高山寺のある栂尾は、紅葉の名所として知られる高雄山神護寺からさらに奥に入った山中に位置し、古代より山岳修行の適地として、小寺院が営まれていたようである。今の高山寺の地には、奈良時代から「度賀尾寺」「都賀尾坊」などと称される寺院があり、宝亀5年（774年）、光仁天皇の勅願で建立されたとの伝えもあるが、当時の実態は明らかでない。平安時代には、近隣の神護寺の別院とされ、神護寺十無尽院（じゅうむじんいん）と称されていた。これは、神護寺本寺から離れた、隠棲修行の場所であったらしい。

高山寺の中興の祖であり、実質的な開基とされるのは、鎌倉時代の華厳宗の僧、明恵（みょうえ）である。明恵房高弁（1173－1232）は承安3年（1173年）、紀伊国有田郡は現在の和歌山県有田川町にあたる場所で生まれた。父は平重国という武士であり、母は紀州の豪族湯浅家の娘であった。幼時に両親を亡くした明恵は、9歳で生家を離れ、母方の叔父に当たる神護寺の僧・上覚（1147－1226）のもとで仏門に入った。

明恵は、法然の唱えた「専修念仏」の思想を痛烈に批判し、華厳宗の復興に努めた。「専修念仏」とは、仏法が衰えた「末法」の時代には、人は菩提心（さとり）によって救われることはなく、念仏以外の方法で極楽往生することはできないという主張であり、これは菩提心や戒律を重視する明恵の思想とは相反するものであった。

明恵は建永元年（1206年）、34歳の時に後鳥羽上皇から栂尾の地を与えられ、また寺名のもとになった「日出先照高山之寺」の額を下賜された。この時が現・高山寺の創立と見なされている。「日出先照高山」（日、出でて、まず高き山を照らす）とは、「華厳経」の中の句で、「朝日が昇って、真っ先に照らされるのは高い山の頂上だ」という意味であり、そのように光り輝く寺院であれとの意が込められていると思われる。

高山寺は中世以降、たびたびの戦乱や火災で焼失し、鎌倉時代の建物は石水院を残すのみとなっている。


西芳寺 （苔寺）

<a href="http://ban.compora.com/images/20080110221155.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20080110221155_m.jpg" width="200" height="128" alt="古都京都の文化財　世界文化遺産・日本　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>

西芳寺 (さいほうじ)は、京都市西京区松尾にある臨済宗の寺院。一般には通称の苔寺で知られる。山号を洪隠山と称する。本尊は阿弥陀如来、開山は行基、中興開山は夢窓疎石である。「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。

起源と歴史

<a href="http://ban.compora.com/images/20080110221312.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20080110221312_m.jpg" width="200" height="130" alt="古都京都の文化財　世界文化遺産・日本　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>

寺伝では今、西芳寺のある場所は聖徳太子の別荘であったものを、奈良時代の僧・行基が寺にしたもので、当初は「西方寺」と称し、阿弥陀如来を本尊とする法相宗の寺であったという。その後、空海、法然などが入寺したと寺伝には伝える。こうした寺伝は額面どおり受け取ることはできないが、何らかの前身寺院があったものと思われる。

近くにある松尾大社の宮司藤原親秀（ちかひで）は、暦応2年（1339年）、当時の高僧であり作庭の名手でもあった夢窓疎石（夢窓国師）を招請して、すっかり荒れ果てていたこの寺を禅寺として再興した。もとの寺名「西方寺」は、西方極楽浄土の教主である阿弥陀如来を祀る寺にふさわしい名称であるが、夢窓疎石はこれを「西芳寺」と改めた。「西芳」は「祖師西来」「五葉聯芳」という、禅宗の初祖達磨に関する句に由来するという。

西芳寺は応仁の乱（1467-1477）で焼失。江戸時代には2度にわたって洪水にも見舞われて荒廃した。元は枯山水であった荒廃した庭園が苔でおおわれるのは江戸時代末期に入ってからのようである。すぐそばに川が流れる谷間、という地理的要因が大きい、とされる。

西芳寺はかつては誰でも参観できる観光寺院であったが、1977年からは一般の拝観を中止し、往復はがきによる事前申し込み制となっている。単なる観光や見学ではなく写経などの宗教行事に参加することが条件となっている。


天龍寺

<a href="http://ban.compora.com/images/20080110221430.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20080110221430_m.jpg" width="200" height="150" alt="古都京都の文化財　世界文化遺産・日本　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>

天龍寺（てんりゅうじ）は、京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町（すすきのばばちょう）にある、臨済宗天龍寺派大本山の寺院。山号は霊亀山（れいぎざん）。寺号は詳しくは天龍資聖禅寺（てんりゅうしせいぜんじ）と称する。本尊は釈迦如来、開基（創立者）は足利尊氏、開山（初代住職）は夢窓疎石である。足利将軍家と後醍醐天皇ゆかりの禅寺として壮大な規模と高い格式を誇り、京都五山の第一位とされてきた。「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。

起源と歴史

<a href="http://ban.compora.com/images/20080110221535.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20080110221535_m.jpg" width="200" height="150" alt="古都京都の文化財　世界文化遺産・日本　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>

天龍寺の地には平安時代初期、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子（たちばなのかちこ、786－850）が開いた檀林寺があった。その後約4世紀を経て荒廃していた檀林寺の地に後嵯峨天皇（在位1242－1246）とその皇子である亀山天皇（在位1259－1274）は離宮を営み、「亀山殿」と称した。「亀山」とは、天龍寺の西方にあり紅葉の名所として知られた小倉山のことで、山の姿が亀の甲に似ていることから、この名がある。天龍寺の山号「霊亀山」もこれにちなむ。

足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため、大覚寺統（後醍醐天皇の系統）の離宮であった亀山殿を寺に改めたのが天龍寺である。尊氏は暦応元年/延元3年（1338年）、征夷大将軍となった。後醍醐天皇が吉野で死去したのは、その翌年の暦応2年/延元4年（1339年）である。足利尊氏は、後醍醐天皇の始めた建武の新政に反発して天皇に反旗をひるがえした人物であり、対する天皇は尊氏追討の命を出している。いわば「かたき」である後醍醐天皇の死去に際して、その菩提を弔う寺院の建立を尊氏に強く勧めたのは、当時、武家からも尊崇を受けていた禅僧・夢窓疎石であった。寺号は、当初は年号をとって「暦応資聖禅寺」と称する予定であったが、尊氏の弟・足利直義が、寺の南の大堰川（保津川）に金龍の舞う夢を見たことから「天龍資聖禅寺」と改めたという。寺の建設資金調達のため、天龍寺船という貿易船が仕立てられたことは著名である。落慶供養は後醍醐天皇七回忌の康永4年（1345年）に行われた。

亀山天皇陵 
後嵯峨天皇陵天龍寺は京都五山の第一として栄え、寺域は約33万平方メートル、現在の京福電鉄帷子ノ辻（かたびらのつじ）駅あたりにまで及ぶ広大なもので、子院150か寺を数えたという。しかし、その後のたびたびの火災により、創建当時の建物はことごとく失われた。中世には延文3年（1358年）、貞治6年（1367年）、応安6年（1373年）、康暦2年（1380年）、文安4年（1447年）、応仁元年（1467年）と、6回も火災に遭っている。応仁の乱による焼失・再建後、しばらくは安泰であったが、江戸時代の文化12年（1815年）にも焼失、さらに幕末の元治元年（1864年）、蛤御門の変（禁門の変）で大打撃を受け、現存伽藍の大部分は明治時代後半以降のものである。なお、方丈の西側にある夢窓疎石作の庭園（特別名勝・史跡）にわずかに当初の面影がうかがえる。

方丈の北側には、宮内庁管理の亀山天皇陵と後嵯峨天皇陵がある。


鹿苑寺 （金閣寺）

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鹿苑寺（ろくおんじ）は、京都市北区にある臨済宗相国寺派の寺院。寺名は足利義満の法名にちなむ。通称金閣寺（きんかくじ）、山号は北山（ほくざん）。1994年に古都京都の文化財として世界遺産に登録された。中心となる建築物である舎利殿を「金閣」、寺院全体を「金閣寺」と通称する。

歴史

<a href="http://ban.compora.com/images/20080110221855.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20080110221855_m.jpg" width="174" height="200" alt="古都京都の文化財　世界文化遺産・日本　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>

この地には、鎌倉時代の元仁元年（1224年）に藤原公経（西園寺公経）が西園寺を建立し、あわせて山荘を営んでいた。これらは公経の子孫である西園寺家が代々所有していた。同氏は代々朝廷と鎌倉幕府との連絡役である関東申次を務めていたが、幕府滅亡直後に当主・西園寺公宗が後醍醐天皇を西園寺に招待して暗殺しようと企てたという容疑がかけられて処刑されてしまい、西園寺家の膨大な所領と資産は没収されてしまう。このため、西園寺も次第に修理が及ばず荒れていった。

1397年（応永4年）、足利義満が河内国の領地と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築によって一新した。この義満の北山山荘は当時「北山殿」、または「北山第」と呼ばれた。邸宅とは言え、その規模は御所に匹敵し、政治中枢の全てが集約された。義満はここで一切の政務を行った。その後、義満は征夷大将軍を子の義持に譲ったが、実権は手放さず、北山殿にあって政務を見た。義満の死後、義持によって北山殿は舎利殿を残して解体され、禅寺とされ鹿苑寺と名付けられた。夢窓疎石を勧請開山（名目上の開山）としている。
応仁の乱では、西軍の陣となり建築物の多くが焼失した。


慈照寺 （銀閣寺）

<a href="http://ban.compora.com/images/20080110222043.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20080110222043_m.jpg" width="200" height="150" alt="古都京都の文化財　世界文化遺産・日本　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>

慈照寺（じしょうじ）は、京都府京都市左京区にある、東山文化を代表する臨済宗相国寺派の寺院（相国寺の境外塔頭）。

正式名は東山慈照寺。一般には銀閣寺（ぎんかくじ）の名で知られる。山号は東山（とうざん）。開基（創立者）は、室町幕府8代将軍の足利義政、開山は夢窓疎石とされている。（夢窓疎石は実際には当寺創建より1世紀ほど前の人物であり、このような例を勧請開山という。）

足利義政が造営した楼閣建築である観音殿を「銀閣」と通称し、観音殿を含めた寺院全体を「銀閣寺」と通称している。この通称名は近世の名所案内記などですでに使用されている。

なお、金閣と通称される鹿苑寺舎利殿には金箔が貼り付けられているのに対し、銀閣と通称される慈照寺観音殿には銀箔は使用されていない。

歴史

<a href="http://ban.compora.com/images/20080110222234.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20080110222234_m.jpg" width="200" height="150" alt="古都京都の文化財　世界文化遺産・日本　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>

室町幕府8代将軍足利義政は、1473年（文明5年）、嗣子足利義尚に将軍職を譲り、 1482年（文明14年）から、東山の月待山麓に東山山荘（東山殿）の造営を始めた。この地は、応仁の乱で焼亡した浄土寺のあったところであり、近代以降も左京区浄土寺の地名が残っている。

当時は応仁の乱が終わった直後で、京都の経済は疲弊していたが、義政は庶民に段銭（臨時の税）や夫役（ぶやく、労役）を課して東山殿の造営を進め、書画や茶の湯に親しむ風流な生活を送っていた。造営工事は義政の死の直前まで8年にわたって続けられたが、義政自身は山荘の完成を待たず、工事開始の翌年である1483年（文明15年）にはここに移り住んでいた。東山殿には会所、常御所（つねのごしょ）などの大規模な建物が建ち、足利義満の北山殿（後の鹿苑寺）ほどではないが、ある程度政治的機能ももっていた。ただし、現存する当時の建物は銀閣と東求堂（とうぐどう）のみである。

1490年（延徳2年）2月、同年に死去した義政の菩提を弔うため東山殿を寺に改め、相国寺の末寺として創始されたのが慈照寺である。

戦国時代末期には前関白近衛前久の別荘にもなったが、これは慈照寺の歴代住持に近衛家出身者が多かったことによる。前久の死後は再び相国寺の末寺として再興された。

1952年3月29日には庭園が 特別史跡及び特別名勝に指定された。1994年12月17日には「古都京都の文化財」として 世界遺産に登録されている。


龍安寺

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龍安寺（りょうあんじ）は、京都府京都市右京区にある臨済宗妙心寺派の寺院。石庭で知られる。山号を大雲山と称する。本尊は釈迦如来、開基（創立者）は細川勝元、開山（初代住職）は義天玄承である。「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。

地理

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「龍安寺の石庭」として知られる枯山水の方丈石庭で有名な龍安寺は、室町幕府の管領、守護大名で、応仁の乱の東軍総帥でもあった細川勝元が宝徳2年（1450年）に創建した禅寺である。衣笠山山麓に位置する龍安寺の所在地は、藤原北家の流れを汲む徳大寺実能以来、徳大寺家の山荘であったところを、細川勝元が譲り受けたものである。初代住職として妙心寺5世住持の義天玄承（玄詔）を迎えた。龍安寺の開山は実質的にはこの義天玄承とされているが、義天自身は2世に退き、自分の師の日峰宗舜を開山に立てている。創建当初の寺地は現在よりはるかに広く、京福電鉄の線路のあたりまでが境内であったという。

龍安寺は、開基細川勝元自身が一方の当事者であった応仁の乱（1467-1477年）で焼失。勝元の子の細川政元と、4世住持・特芳禅傑によって長享2年（1488年）に再興された。寺では特芳を中興開山と称している。その後、豊臣秀吉と江戸幕府が寺領を寄付して保護している。

近世の地誌類によれば、最盛期の龍安寺には塔頭（たっちゅう、子院）が21か寺、軒を連ねていたという（現存するものは3か寺）。『都名所図会』のような絵入りの名所案内書（現代の旅行ガイドブックに相当）を見ると、当時、龍安寺の池はオシドリの名所として知られており、今日有名な石庭よりもむしろ、池を中心とした池泉回遊式庭園のほうが著名であったらしい。

寛政9年（1797年）の火災で仏殿など主要伽藍を焼失したため、塔頭の1つである西源院の方丈を移築して龍安寺の方丈（本堂）とした。


西本願寺

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西本願寺（にしほんがんじ Nishi Hongwanji）は、京都府京都市下京区にある浄土真宗本願寺派本山の寺院。正式の寺号は本願寺（ほんがんじ）。同じ下京区内にある東本願寺（正式名称は真宗本廟）と区別するために「西本願寺」「お西さん」などと呼ばれることが多い。 2011年4月9日より本願寺御影堂にて親鸞聖人750回大遠忌法要開始予定。

歴史

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宗祖親鸞聖人入滅後、末娘の覚信尼が1272年（文永9年）に現在の京都市東山区林下町（知恩院三門北の崇泰院あたり）に廟堂を営み、遺骨を安置したのが本願寺の発祥とされる。その後、廟堂は内紛のため破壊されたが、3代覚如が再建して専修寺と号し、さらに本願寺と改称した。その後、各地に寺基を移転、1591年（天正19年）、豊臣秀吉により寺地の寄進を受け、天満にあった寺基より現在の堀川六条に移転する。廟堂は江戸時代初頭、東山五条坂西大谷に移り現在の「大谷本廟」となっている。

11代顕如の子教如が徳川家康によって本願寺の東に寺領を与えられ、1602年に本願寺が東西に分かれた際、教如が開いた寺を東本願寺と呼んだため、それまでの本願寺は西本願寺と通称されるようになった。

幕末期には京都を守る剣客集団新選組の本拠地ともなっている。現在まで境内地に大きな変化は無いが、1876年（明治9年）に真宗興正派が独立した際に南境内地を割譲。近年、境内地北側の旧本圀寺跡地（日蓮宗大本山、山科区に移転）を購入している。本願寺の寺基自体は400年以上に渡り移転していない。


二条城

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京都市街の中にある平城で、京都観光の定番となっている。城全体が国の史跡に指定されている他、二の丸御殿が国宝に、22棟の建造物と二の丸御殿にある計954点の障壁画が重要文化財に、二の丸御殿庭園が特別名勝に指定されている。

歴史・沿革

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さまざまな二条城
日本の歴史書において「二条城」と呼ばれることのあるものは、複数ある。当時の二条大路は、朱雀大路が廃れた後、都一の大路であり、足利尊氏から義満まで三代の将軍が二条に屋敷を構えたため、将軍家の屋敷を二条陣または二条城といった。のちには、二条通に面していなくても、将軍家の屋敷を二条陣または二条城といった。室町時代に、平安京の左京にあった唯一の城である。ちなみに右京にも唯一、西院城があった。二条城と西院城を平安京の両城ともいう。

室町幕府第13代将軍足利義輝の居城。 
室町幕府第15代将軍足利義昭の居城として、織田信長によって、作られた城。二条通にはなかった。 
織田信長が、京に滞在中の宿所として整備し、後に皇太子に献上した邸「二条新御所」。 
徳川家康が、京に滞在中の宿所として作った城。 
現存する二条城は、4. の城である。1. と 2. は、同じ場所に作られたが連続性がない。2. と 3. は、同じものと見る説（広辞苑、平凡社日本歴史地名大系など）もあるが、『信長公記』その他の史料、及び発掘結果、残存地名などを根拠として別のものとするのが現在では通説となっている。1. 2. 3. について「二条城」と呼ぶのは、4. が完成した江戸時代以降のことであり、4. と区別する趣旨で「旧二条城」「二条古城」などと呼ばれることもある。この節では、近代の二条城である4. の前史として、1から3までの「二条城」について略説する。

室町時代・安土桃山時代
「二条城」前史として、徳川家康以前の二条城について記述する。

足利義輝の二条城
旧管領斯波武衛家のあった室町勘解由小路（現在の上京区武衛陣町、平安女学院の辺り）に、永禄2年（1559年）から翌年にかけて築かれた城郭で、義輝はここを幕府の本拠とした。しかし、防御能力強化工事中の永禄8年（1565年）、松永久秀と三好三人衆に襲撃され、自ら刀を執って奮戦するも義輝は殺害され、二条城は焼失した（永禄の変）。その後は、義輝の菩提を弔うため、真如堂が建立された。現在は、「此附近 斯波氏武衛陣 足利義輝邸 遺址」と彫られた石碑が建っている。なお、所在地は二条通からは遠く離れている。

足利義昭の二条城
足利義昭は、織田信長の武力を後ろ盾として将軍に就任した後、六条本圀寺を居所としていたが、永禄12年（1569年）、三好三人衆による襲撃を受けた。このときは、京にいた信長家臣団、及び、義昭の側近らの奮戦により防戦に成功するが、この報を受けた信長は、さらに防備の整った城の必要性を認識し、義昭のために築城をすることを決めた。場所は、義輝の二条城のあった地を中心に、それをさらに拡張して約400メートル四方の敷地に、二重の堀や三重の「天主」を備える城郭とした。信長自身が普請総奉行として現地で陣頭指揮を執り、御殿などの建築を統括する大工奉行には、村井貞勝と島田秀満が任じられた。旧管領細川京兆家旧邸からは、文字通り「鳴り物入り」で名石「藤戸石」が搬入された。築城は約70日という短期間で終え、その年の4月に義昭は、ここに本拠を移した。この城の石垣には京都中から集められた墓石や石仏も使われた。周辺からは金箔瓦も発掘されており急ごしらえにしては豪壮な殿舎であったと考えられている。

ところが、義昭と信長の関係は徐々に悪化し、元亀3年（1572年）、義昭の信長追討令に応じた武田信玄が西上を開始し、三方ヶ原の戦いで勝利を収めたのを知ると、翌4年（1573年）3月に、義昭は二条城において信長に対し挙兵する。信長は上京の町屋を焼き払い二条城を包囲するが、城自体に対しては攻撃を控え、正親町天皇の勅命を得て、和議が成立する。しかし、7月に再び義昭は宇治の槙島城において挙兵する。このとき、二条城には、公家の日野輝資と高倉永相、義昭の側近の伊勢貞興と三淵藤英が守備のため置かれたが、信長軍に包囲されると一戦も交えず降伏した。この際に、御殿などは兵士たちによって掠奪され、破壊されたと伝えられる。この直後、槙島城の義昭も降伏し、畿内から追放され、室町幕府は滅ぶことになる。二条城に残った天主や門は、天正4年（1576年）に解体され、築城中の安土城へ運ばれ、建築資材として再利用された。当時は「武家御所」「武家御城」などと呼ばれていた（この城が二条にあったとするのは「信長公記」永禄12年2月2日条が初出か）。

 旧二条城跡昭和50年（1975年）から53年まで、京都市営地下鉄烏丸線建設に先立つ烏丸通の発掘調査が行われ、この信長の二条城の石垣および2重の堀の跡が確認された。この際発掘された石垣にあった石仏が京都文化博物館や西京区の洛西竹林公園内に保存されている。また、石垣の一部が京都御苑椹木門内及び現二条城内に復元されている。 現在は、平安女学院の敷地の一角に「旧二條城跡」と彫られた石碑が建っている。

織田信長・誠仁親王の「二条新御所」
織田信長が烏丸－室町の御池上る付近に設けた城館。

信長は、天正4年4月に京に滞在した際、二条の妙覚寺（現在地とは異なる）に宿泊したが、寺の東側に隣接する二条家の屋敷の庭の眺望を気に入った。二条邸（二条殿）は、当時、「洛中洛外図屏風」に必ず登場する名所中の名所として広く知られていた。前住者の二条晴良・昭実（妻は信長の養女）父子は直前に信長のはからいにより報恩寺の新邸に移徒して（『言経卿記』）空き家となっていたので、信長が上洛したときの宿所とするため、この旧二条邸を譲り受けて改修することを京都所司代の村井貞勝に命じた。翌年の閏7月に信長は初めて入邸、8月末には改修が終わり、以後2年ほどは、この「二条御新造」を京の宿所とする。天正7年（1580年）11月に、信長はこの邸を、儲君の誠仁親王に献上した。直ちに、誠仁親王と皇子の五の宮（後の邦慶親王）が、この「二条新御所」に転居した（なお、この際信長は五の宮を猶子としたとされており、これを正親町天皇の五の宮である誠仁親王にあてる誤解があるが、正しくは親王の五の宮が猶子となったのである）。

天正10年（1582年）、本能寺の変が起きると、妙覚寺にいた信長の嫡男織田信忠主従は、それを知るや本能寺の信長と合流するため出撃しようとしていた。しかし、そこに京都所司代村井貞勝とその子らが駆けつけ、本能寺が既におちた旨を伝え、防御能力に優れた二条新御所へ移ることを進言した。信忠は、誠仁親王らを禁裏御所に避難させた上で、ここに籠城し、これを攻囲する明智勢と奮戦するが、信忠を始め、村井貞勝ら60余名が討ち死にし、二条新御所も隣接する妙覚寺と共に灰燼に帰した。現在は、両替町通御池上ルに「此附近 二条殿址」、室町通御池上ルに「二条殿御池跡」と彫られた石碑が建っている。付近には「二条殿町」「御池之町」及び本能寺の変ゆかりの「上妙覚寺町」「下妙覚寺町」の地名が残る。

現在、この二条御所は義昭の二条城跡に設けられたものとする説が広まっている。しかし、誠仁親王当時、禁裏「上の御所」に対し「下の御所」と呼ばれていたから禁裏南方にあったと思われる。また本能寺の変に際して信忠が妙覚寺から移動したことから両所は近接していたことが推測できるし、山科言経が天正4年9月13日に「右大将家二条新邸を見物」、翌14日には「武家古城を見物」し石垣の取り壊し・搬出を目撃しているから（『言経卿記』）、明らかに別の場所にあったとすべきである。

羽柴（豊臣）秀吉の「二条第」
なお、羽柴秀吉も二条に城を構えている。秀吉は信長在世中にも二条御新造の隣接地に屋敷を有していたが、天正8年に信長によって没収されてお気に入りであった前関白近衛前久に献上されている（『兼見卿記』）。皮肉にも本能寺の変の際、近衛家家人が逃げ出したこの屋敷を占拠した明智軍がここから二条新御所を攻撃したという話があり、やがてそれに尾ひれが付いて前久が光秀に加担したとの風説が流された。その後、天正11年本拠地を大坂に定めた秀吉は京都における拠点として「二条第」を構えた。妙顕寺を移転させその跡地に建設されたことから「妙顕寺城」とも呼ばれる。周囲に堀を巡らし天主もあったことから屋敷というより城という方が相応しかったのだろう。聚楽第完成まで秀吉の政庁として使われ普段は前田玄以が在城した。所在地は、二条城の東200メートル、現中京区小川押小路付近、地名に「古城（ふるしろ）町」「下古城（しもふるしろ）町」を遺している。

創建
幕府は二条城と称したが、朝廷側は、これを二条亭と呼んだ。関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、上洛時の宿所として大宮押小路に築城を決め、慶長6年（1601年）5月から町屋の立ち退きを開始、12月に西国諸大名に造営費用および労務の割り当てを行った。造営総奉行に京都所司代板倉勝重、作事（建築）の大工棟梁に中井正清が任じられた。慶長7年（1602年）5月に、御殿・天守の造営に着工、翌8年3月に落成する。但し、天守は、慶長11年（1606年）に完成。家康は、慶長8年（1603年）2月に伏見城において征夷大将軍補任の宣旨を受け、3月に竣工間もない二条城に入城、室町幕府以来の慣例に基づく「拝賀の礼」を行うため、御所への行列を発した。それに続き、二条城において重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の儀を行った。この将軍就任の手順は、2年後の慶長10年（1605年）に第2代将軍秀忠が、元和9年（1623年）に第3代将軍家光が踏襲するが、第4代将軍家綱以降は行われなくなった。

慶長16年（1611年）に、二条城の御殿（現在の二の丸御殿）において、徳川家康と豊臣秀頼の会見が行われるが、このとき家康は秀頼の成長ぶりに驚き、徳川家の天下が覆されるかもしれないとの危機感を抱き、豊臣家を滅ぼすことを決意したとも言われている。そして、慶長19年（1614年）、大坂の役が勃発。二条城は、大御所（家康）の本営となり、伏見城から出撃する将軍秀忠の軍勢に続き、家康は二条城から大坂へ駒を進めた。翌慶長20年（1615年）の夏の陣においては、二条城に火をかけ、混乱の中で家康を暗殺しようとした陰謀が明らかとなり、徳川方についていた古田織部の家臣が捕縛された。このため、古田織部は切腹、家財没収となる事件もあった。

元和2年（1616年）に家康が没した後、元和5年（1619年）から秀忠は、娘和子の後水尾天皇への入内に備え、二条城の改修を行う。このときの縄張（基本設計）は、秀忠自らが藤堂高虎と共に行った（秀忠は、2つの案から一方を最終選定しただけだが、将軍自らの縄張りであると高虎に持ち上げられたのだった）。翌元和6年（1620年）6月18日、和子は、二条城から行列を作り御所へ入った。

行幸
家光が将軍になり、秀忠が大御所となった元和9年の翌年、寛永元年（1624年）から、二条城は後水尾天皇の行幸を迎えるため、大改築が始まった。作事奉行には小堀政一、五味豊直（後の京都郡代）が任じられる。行幸は、寛永3年（1626年）9月6日から5日間に渡っておこなわれ、その間、舞楽、能楽の鑑賞、乗馬、蹴鞠、和歌の会が催された。この行幸が二条城の最盛期である。行幸のために新たに建てられた行幸御殿は、上皇となった後水尾院の御所に移築、その他多くの建物が解体撤去された。秀忠死後の寛永11年（1634年）7月、家光が30万7千の兵を引きつれ上洛し、二条城に入城したのを最後に、二条城が将軍を迎えることは途絶え、幕末の動乱期までの230年間、二条城は歴史の表舞台から姿を消す。

その230年の間に、暴風雨や地震、落雷で徐々に建物は破損し、老朽化する。寛延3年（1750年）には落雷により天守が炎上、焼失。さらに、京の町を焼き払った天明8年（1788年）の大火の際には、飛び火が原因で、本丸御殿、隅櫓などが焼失した。破損部分に関しては修理が行われたが、滅失した建物については再築されることなく、幕末を迎える。

二条城には、寛永2年に、将軍不在の間の管理と警衛のために、二条城代と二条在番が設置された。元禄12年（1699年）に二条城代が廃止され、その職務は二条在番が担当することとなった。文久2年（1862年）閏8月には、交代制の二条在番は廃止され、それに代わって常勤制の二条定番が設置された。なお、朝廷の監視および折衝を担当する京都所司代は、二条城の北に邸を構えそこで政務を執っていたため、将軍不在の二条城は幕府の政庁としては全く使用されなかった。

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幕末
庭園側から見た二の丸御殿14代将軍家茂は、文久3年（1863年）3月、朝廷の要請に応えて上洛をする。これに先立ち、文久2年（1862年）から、将軍上洛を迎えるため、荒れ果てていた二条城の改修が行われる。二の丸御殿は全面的に修復し、本丸には仮御殿が建てられた。家茂は、慶応元年（1865年）に再度上洛し二条城に入るが、すぐに第二次長州征伐の指揮を執るため大坂城へ移る。しかし、ここで病に倒れ、翌慶応2年夏に死去する。二条城では幕閣によって次の将軍は一橋慶喜と決定するが、慶喜は就任を拒絶。幕府関係者のみならず朝廷からの度重なる説得の末、ようやく、その年の12月に、二条城において第15代将軍拝命の宣旨を受ける。ただし、慶喜が宿所を若狭小浜藩邸から二条城に移したのは翌慶応3年9月のことであった。10月には大政奉還、将軍職返上、12月には朝廷より辞官納地命令が二条城に伝達される。このとき二条城には、旗本を中心とする徳川家直属の兵約5000、会津藩士約3000、桑名藩士約1500が集結しており、朝廷を操る薩摩藩の挑発に対し激昂していた。軍事衝突を避けるため、慶喜は二条城からこれらの兵を連れて大坂城へ向かう。二条城は、若年寄永井尚志と水戸藩士約200名が守備のため残った。しかし、命令系統の混乱から別に二条城守備の命を受けた新選組が到着し、水戸藩士との間で押し問答になる。この件は、永井の機転で、新選組が伏見奉行の守備に回ることで解決した。

翌慶応4年（1868年）正月、鳥羽・伏見の戦いが勃発。大坂に召還された永井尚志に代わり、二条城は水戸藩士梅沢孫太郎が留守役となっていたが、1月5日に、朝廷（新政府）の命を受けた議定徳川慶勝に引き渡され、太政官代が設置された。閏4月に太政官代は、宮中に移転した。


近現代
東京奠都後の明治3年（1870年）に、二条城は留守官の管轄下に置かれるが、明治4年（1871年）二の丸御殿は京都府庁舎となる。明治6年に陸軍省の所管に移された後、明治17年（1881年）に宮内省の所管となり「二条離宮」と改称した。翌明治18年（1882年）に京都府の新庁舎が完成したため移転した後、二の丸御殿の修理が明治20年まで行われる。

明治26年から27年にかけて、京都御苑の今出川門脇に位置する旧桂宮邸を本丸へ移築し、本丸御殿とする。大正4年（1915年）、大正天皇即位の儀式である大典の饗宴場として二条城二の丸が使用され、それに伴い、南門や二の丸御殿の附属建物が増築される。第二次世界大戦後、GHQの意向で、二の丸北側にテニスコートが作られたが、昭和40年（1965年）に庭園に変えられた。


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         <pubDate>Thu, 10 Jan 2008 21:10:39 +0900</pubDate>
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         <title>姫路城（ひめじじょう）　世界文化遺産</title>
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         <description><![CDATA[<a href="http://ban.compora.com/images/20100426152849.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20100426152849_m.jpg" width="200" height="85" alt="姫路城（ひめじじょう）　世界文化遺産・日本　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>


姫路城（ひめじじょう）は、兵庫県姫路市（播磨国飾東郡姫路）にある城。国の特別史跡。白漆喰の城壁の美しさから白鷺城（はくろじょう（しらさぎじょうは誤って広まった呼び方））とも呼ばれる、日本における近世城郭の代表的な遺構である。


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概要
今や全国に12箇所しか現存していない、江戸時代以前に建造された天守を有する城郭の一つである（現存天守）。


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国宝四城（姫路城・松本城・彦根城・犬山城）の一つでもあり、築城以来の姿をよく残している事もあって、時に「天下の名城」あるいは「日本一の名城」と言われる。

築城以来廃城や戦火の危機を免れてきた事から天守をはじめ多くの建造物が現存し、うち大天守、小天守、渡櫓等8棟が国宝、74棟の各種建造物（櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟）が重要文化財に指定されている。また1993年、ユネスコの世界遺産（文化遺産）に登録されている。


<a href="http://ban.compora.com/images/20071101000134.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20071101000134_m.jpg" width="200" height="150" alt="姫路城（ひめじじょう）　世界文化遺産・日本　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>


姫路城の所在地「姫路市本町68番地」は、日本の番地では皇居の位置する「千代田区千代田1番地」に次ぐ面積を誇る。近代には陸軍歩兵第十連隊が駐屯していた。

2006年（平成18年）4月6日、日本100名城（59番）に選定され、2007年（平成19年）6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。

白壁の美しい城であり、時代劇を始めとして映画などのロケが行われる事も多い。しばしば江戸城など他の城の代わりとして撮影されている。

築城者
姫路市街北部の姫山に最初に築城したのは、南北朝時代の正平元年/貞和2年（1346年）、赤松則村（円心）の子・赤松貞範であるという説が有力である。ただし、赤松氏時代は砦と呼ぶべき小規模なもので、「城」と呼べる規模の構築物としては、16世紀に播州平野に割拠した小寺氏の被官である黒田重隆が築城したのが最初であるという異説もある。

その後、天正8年（1580年）織田信長の重臣であった羽柴秀吉（後の豊臣秀吉）が播磨統治の中心拠点として姫路城を選定し、近世城郭にふさわしい体裁を整えた。

ただし現在残る城郭と遺構は秀吉時代のものではなく、徳川家康の娘婿で「西国将軍」の異名を取った池田輝政が慶長5年（1601年）から8年掛かりで築造したものである。普請奉行は池田家家老伊木長門守忠繁、大工棟梁は桜井源兵衛である。作業には在地の領民が駆り出され、築城に携わった人員は延べ4千万人～5千万人であろうと推定されている。

形式と構造
 
縄張（基本配置）
典型的な平山城。天守のある姫山を中心として、その周囲の平地まで含めた縄張となっている。全体としては、姫山の北方を起点に左回りに三重の螺旋を描くような構造であり、梯郭式縄張を成す。一周目を「内曲輪（くるわ）」、二周目を「中曲輪」、三周目を「外曲輪」と称する。曲輪とは区画の事である。現在では内曲輪の範囲が姫路城の範囲として認識されている。中曲輪・外曲輪は周囲の地形を利用し城下町を内包した「総構え」である（詳しくは後に述べる）。


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内曲輪の内部においても、さらに本丸・二の丸・三の丸・西の丸・出丸（御作事所）の五重構造になっている。内曲輪には他に水曲輪・腰曲輪・帯曲輪などがある。これらはいの門・ろの門などいろは順に名付けられた門によって細かく区切られている。現在は三の丸は広場に、出丸は姫路動物園の一部になっている。

輝政による築城はちょうど関ヶ原の戦いと大坂の役の間であり、ゆえに極めて実戦本位の縄張となっている。同時に優美さと豪壮さとを兼ね備えた威容は、「西国将軍」輝政の威を示すものでもある。姫路城以降は元和元年（1615年）の徳川幕府による一国一城令によって幕府の許可なく新たな築城や城の改修・補修が出来なくなったこともあり、江戸城や名古屋城といった徳川氏による築城を除いては姫路城に続くほどの規模の城は現れていない。

姫山北部には、築城以前の姿のままで残されている「姫山原生林」がある。この原生林の中には、本丸からの隠し通路の出口があるという噂があるが、今のところその存在は確認されていない。三の丸からは西の丸の石垣下にある鷺山口門が内堀に通じていた。

姫山の西を流れる船場川は、内堀に寄り添う形で流れており、堀同様の役割を果たしている。かつてはその名の通り水運のために利用されていた。


姫路城天守から望む。

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通路と門
 
菱の門通路は迷路のように曲がりくねり、広くなったり狭くなったり、さらには天守へまっすぐ進めないようになっている。本来の地形や秀吉時代の縄張を生かしたものと考えられている。門もいくつかは一人ずつ通るのがやっとの狭さであったり、また、分かりにくい場所・構造をしていたりと、ともかく進みづらい構造をしている。当然これは防御のためのものであり、敵を迷わせ分散させ、袋小路で挟み撃ちにするための工夫がなされている。


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例えば、現在の登城口（三の丸北側）から入ってすぐの菱の門からは、真っ直ぐいの門・ろの門・はの門の順に進めば天守への近道のように見えるが、実際は菱の門から右手に進んで石垣の中に隠された穴門であるるの門から進むのが近い。るの門は土砂で封鎖してしまえる埋門（うずみもん）でもあった。不意打ちのためのものであったとも考えられる。はの門からにの門へ至る通路は守り手側に背を向けなければ進めない。ほの門は極端に狭い鉄扉である。その後は天守群の周りを一周しなければ大天守へはたどり着けないようになっている。

画像の菱の門は伏見城から移されたという伝承があり、古式な姿を残している

天守（天守閣）

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本丸から連立式天守を望む姫路城の天守は江戸時代のままの姿で現在まで残っている天守の一つであり、まさしく姫路の象徴である。

姫路城の天守閣は姫山の頂上に設けられた天守台の上に、天正八年（1580年）の春、羽柴秀吉が現在の大天守に三層天守を構えたのが始まりである。その後池田輝政によって解体され、現在に姿を残している。

天守の構造は、東西二本の心柱で支えられた五層六階地下一階の七層の大天守と小天守3基（西・乾・東）で構成されている。天守の間は二層の渡り櫓で結ばれている。これを連立式と称する（現存12天守では松山城が同じ）。建設時期や構成から後期望楼型に分類される。全体が白漆喰総塗籠造（しろしっくいそうぬりごめづくり）で、防火・耐火・鉄砲への防御のための構造にして、同時に美観を兼ね備えるためのものであると考えられる。「烏城」の異名で姫路城と対比される岡山城に代表されるような板壁が主であったこれ以前の城の外装が、漆喰壁へと移り変わったちょうどその過渡期にあたるものである。


<a href="http://ban.compora.com/images/20071101004129.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20071101004129_m.jpg" width="200" height="150" alt="姫路城（ひめじじょう）　世界文化遺産・日本　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>


その外観はほかの城の天守と比較しても非常に多様性に富んでいる。屋根の外見も大きく緩やかな曲線を描く唐破風（からはふ）、山なりの千鳥破風（ちどりはふ）、千鳥破風の中にも複数層にまたがる大千鳥破風といった具合に変化に富んでいる。窓も大天守二層目南面の唐破風の直下に置かれた巨大な出格子（でごうし）が目を引くが、一方で西・乾小天守にある釣り鐘のような形の火燈窓（かとうまど）も独特である。火燈窓は同様の後期望楼型天守である彦根城などにも見られる。


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姫路城の天守は姫山（標高45.6m）の上に建っており、姫路城自体の高さは、石垣が14.85m、建物が31.5mなので合計すると海抜92mになる。天守の総重量は、現在はおよそ5700tである。かつては6200tほどであったとされるが、「昭和の大修理」に際して瓦などの軽量化が図られた。今日では天守内には姫路城にまつわる様々な品物が展示されている。

西の丸
西の丸には現在は渡櫓とこれを結ぶ長局（ながつぼね）、そして、その北端に位置する化粧櫓のみが残っている。長局には侍女達の部屋が有る。化粧櫓は本多忠政が伊勢桑名から移ってきた時に、千姫の化粧料10万石で元和四年（1618年）に建てられたものである。千姫は西の丸内に設けられた中書丸（天樹院丸）と三の丸脇の武蔵野御殿に住んでいたが、いずれも現在は失われている。戦前の修理までは、化粧櫓にはその名の通り当時の化粧品の跡が残っていたという。

腰曲輪・水曲輪
天守閣の北側にある腰曲輪（こしくるわ）には、籠城のための井戸や米蔵・塩蔵が設けられている。なお平時に用いる蔵は姫山の周囲に設けられていた。

天守の下は岩盤で井戸が掘れず、そのため天守と腰曲輪の間の補給の便のため水曲輪を設け、水一門から水五門までの門を設けている。

腰曲輪の中、ほの門内側に油壁（あぶらかべ）と呼ばれる土塀がある。白漆喰で塗られた他の壁と異なり、茶色の地肌が直接見える特異な姿をしている。製法やその理由については諸説有るが、秀吉時代の遺構という説もある。


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帯曲輪櫓（腹切丸）
天守閣の南東にある帯曲輪櫓（おびくるわやぐら）は別名を腹切丸（はらきりまる）と呼ばれる。本来は城の防御において射撃などに用いられる場所であったが、その薄暗い雰囲気に曲輪内の井戸なども相まってこの異名が生まれたものと考えられる。実際に切腹が行われたという記録はなく、そもそも城内で罪人などに切腹を行わせる事はあり得ない。

防御施設
城壁には数多くの丸・三角・長方形の穴が開いている。これは狭間（はざま）という射撃用の穴で、長方形のものが矢狭間、他が鉄砲狭間である。長方形の狭間は他の城にもよく見られるが、様々な形の狭間をアクセントとして配置してあるのは独特である。狭間は姫路市内においても公共施設のデザインに組み込まれている（例えば橋の欄干、車止めブロックなどに丸・三角・四角の模様や穴が見られる）。さらに天守の壁に隠した隠狭間（非常時にのみ開かれる）、門や壁の中に仕込まれた石落し（ここから石・鉄砲・熱湯などで攻撃する）など、数多くの防御機構がその優美な姿の中に秘められている。


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その他の特徴的構造物
建物や塀の屋根に用いられている軒瓦などには、その瓦を作った時の城主の紋が彫り込まれている。池田氏の揚羽蝶紋、羽柴（豊臣）氏の桐紋、本多氏の三つ葉葵紋などがよく見られる。中には十字架のように見える十字の紋が彫り込まれた軒瓦もある。

城主の居館
 
三の丸広場城主の居館は当初、天守台の下にある本丸にあって備前丸と称した。これは池田輝政の所領にちなむ名である。しかし、備前丸も山上で使いづらいため、本多忠政は三の丸に本城と称する館を立ててここに住んだ。以降の城主は本城、あるいは中曲輪の市の橋門内の西屋敷に居住している。徳川吉宗の時代の城主・榊原政岑が吉原から高尾太夫を落籍し住まわせたのもこの西屋敷である。西屋敷跡およびその一帯は今日では姫路城西御屋敷跡庭園「好古園」として整備されている。


<a href="http://ban.compora.com/images/20071031235655.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20071031235655_m.jpg" width="200" height="150" alt="姫路城（ひめじじょう）　世界文化遺産・日本　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>


なお、今日では三の丸跡のうち本城跡には千姫ぼたん園、向屋敷跡には三の丸広場が開かれている。三の丸広場は市民の憩いの場となっており、各種のイベントスペースとしても使用される。

なお、姫路城所在地の姫路市本町68番地は、周囲の警察署・高校・美術館等をも含み、単独の番地としては皇居の千代田区千代田1番地に次ぐ広さといわれる。本町68番地は内曲輪および中曲輪の範囲に相当し、明治・大正時代には陸軍歩兵第十連隊が配置されていた。1980年代以降この一帯の整備および再開発事業が行われ、様々な文化施設・観光名所が立ち並ぶ一帯となっている。

歴史
山陽道上の交通の要所・姫路に置かれた姫路城には、江戸時代には池田輝政およびその子・孫以降は親藩松平氏や譜代大名が配置され、さらに西国の外様大名監視のために西国探題が設置された。

安土桃山時代以前

築城は南北朝時代、赤松則村（円心）が姫路山上に築いた称名寺をもとに、正平元年（1336年）の赤松貞範による築城説が有力である。室町時代の嘉吉元年（1441年）の嘉吉の乱で赤松氏が没落すると、一時山名氏が入るが、応仁の乱の混乱の中赤松氏に奪還された。

16世紀前半、御着城（現在の姫路市御国野町御着）を中心とした赤松支族の小寺氏が播州平野に台頭、その被官であった黒田重隆が城代として姫路城に入った（この時期の築城説もある）。重隆によって居館程度の規模であった姫路城の修築がある程度行われ、姫山の地形を生かした中世城郭となったと考えられている（規模は現在残るものよりもはるかに小さい）。天正初年まで黒田氏が代々城代を勤め、重隆の子職隆、孫の孝高（官兵衛、如水）に伝えられた。ところが、天正4年（1576年）に織田信長の命を受けて羽柴秀吉が播磨に進駐すると、播磨国内は織田氏につく勢力と中国地方の毛利氏を頼る勢力とで激しく対立、最終的には織田方が勝利し、毛利方についた小寺氏は没落した。ただし小寺氏の被官でありつつも早くから秀吉によしみを通じていた黒田孝高はそのまま秀吉に仕える事となった。

天正8年（1580年）、黒田孝高は秀吉に居城であった姫路城を献上した。秀吉は大整備を行って姫路城を姫山を中心とした近世城郭に改めるとともに、当時流行しつつあった石垣で城郭を囲い、さらに天守（三層と伝えられる）を建築した。あわせて城の南部に大規模な城下町を形成させ、姫路を播磨国の中心地となるように整備した。この際には姫路の北を走っていた山陽道を曲げ、姫路の城下町を通るようにも改めている。

天正10年（1582年）6月、秀吉は主君信長を殺害した明智光秀を山崎の戦いで討ち果たし、一気に天下人への地位を駆け上っていく。このため翌天正11年（1583年）には天下統一の拠点として築いた大坂城へ移動、姫路城には弟の羽柴秀長（後の豊臣秀長）が入ったが天正13年（1585年）には大和郡山へと転封、替わって親族の木下家定が入った。

慶長5年（1601年）、家定は備中に2万5千石で転封、代わって池田輝政が関ヶ原の戦いの戦功で52万石（播磨一国支配）で入城した。輝政によって8年掛かりに及ぶ大改修が行われ、広大な城郭が築かれる事となった。


江戸時代
 
姫路城鳥瞰図姫路藩の歴史も参照。


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元和3年（1617年）、池田氏は跡を継いだ光政が幼少であり、重要地を任せるには不安である事を理由に因幡鳥取へ転封させられ、伊勢桑名から本多忠政が15万石で入城した。1618年（元和4年）には千姫が本多忠刻に嫁いだのを機に西の丸が整備され、全容がほぼ完成した。

要衝姫路の藩主は親藩および譜代大名が務めたが、本多家の後は奥平松平家、越前松平家、榊原家、再度越前松平家、再度本多家、再度榊原家、再々度越前松平家とめまぐるしく入れ替わる。1749年（寛延2年）上野前橋城より酒井氏が入城してようやく藩主家が安定する。しかし、豪壮な姫路城は石高15万石の姫路藩にとっては非常な重荷であり、譜代故の幕府要職も相まって藩の経済を圧迫していた。


<a href="http://ban.compora.com/images/20071101003829.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20071101003829_m.jpg" width="200" height="150" alt="姫路城（ひめじじょう）　世界文化遺産・日本　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>


姫路城は江戸時代にもたびたび修理が行われてきたが、当時の技術では天守の重量に礎石が耐えられず沈み込んでいくのを食い止める事は難しかった。加えて柱や梁などの変形も激しく、江戸時代後期には俗謡に『東に傾く姫路の城は、花のお江戸が恋しいか』などと歌われるありさまであった。


<a href="http://ban.compora.com/images/20071101003712.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20071101003712_m.jpg" width="105" height="200" alt="姫路城（ひめじじょう）　世界文化遺産・日本　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>


幕末期、鳥羽・伏見の戦いにあって姫路城主酒井忠惇は老中として幕府方に属し将軍徳川慶喜と共にあったため、姫路藩も朝敵とされ姫路城は岡山藩と龍野藩の兵1500人に包囲された。この時、輝政の子孫・池田茂政の率いる岡山藩の部隊が姫路城に向けて数発空砲で威嚇砲撃を行っている。その中に実弾も混じっており、このうち一発が城南西の福中門に命中している。官軍の姫路城総攻撃は不可避と思われたが、摂津国兵庫津の勤王豪商・北風正造が15万両に及ぶ私財を官軍に献上し、それを食い止めた。この間に藩主の留守を預かる家老達は最終的に開城を決定、城明け渡しで官軍と和睦する。こうして姫路城を舞台とした攻防戦は回避され、後年の世界遺産は焼失を逃れた。

明治時代
1871年（明治4年）に廃藩置県がおこなわれ、さらに1873年（明治6年）の廃城令によって日本の城の多くがもはや不要であるとして破却された。姫路城は競売に付され、城下の米田町に住む個人、神戸某が23円50銭で落札した。城の瓦を売るのが目的であったという。しかし、解体費用がかかりすぎるとの理由で結局そのままにされ、権利も消滅した。その後1927年（昭和2年）、その個人の息子が、姫路城の所有権を主張して訴訟を起こそうとしたと報じた新聞があったが、別の新聞が後日取材したところでは事実無根だという話であったという。


<a href="http://ban.compora.com/images/20071101004111.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20071101004111_m.jpg" width="200" height="148" alt="姫路城（ひめじじょう）　世界文化遺産・日本　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>


城跡は陣地として好適な場所であった事から、陸軍の部隊は城跡に配置される例が多かった。1874年（明治7年）には姫路城内に歩兵第十連隊が設置された。この際、本城などの三の丸の建物や武蔵野御殿、向屋敷などの数多くの建物が取り壊された。さらに1882年（明治15年）には失火で備前丸を焼失している。

一方で、日本の城郭を保存しようという動きも、明治時代初頭の大変革が一段落付いた明治10年頃には見られるようになっている。陸軍において建築・修繕を担当していた中村重遠（しげとお）大佐は、1878年（明治11年）に陸軍卿山縣有朋に名古屋城および姫路城の保存を太政官に上申するよう願い出て、ようやく姫路城の修復は第一歩を踏み出した。姫路城の菱の門内側には中村大佐の顕彰碑が残る。だが、肝心の予算はなかなか下りず、陸軍の予算からどうにか捻出された保存費は要求額の半分にも満たないものであった。これによってどうにか応急的な修理を施したもののなおも腐朽は進む一方であり、城下各地の有志達の衆議院への陳情によってようやく1910年（明治43年）、国費9万3千円が支給されて「明治の大修理」が行われた。これも天守の傾きを修正するには費用が足りず、傾きが進行するのを食い止めるに留まった。その後、1919年（大正8年）にも陸軍省が西の丸を修理している。後に第十連隊は岡山へ移転した。

「不戦の城」
昭和の大修理について触れる前に、姫路城が「不戦の城」とも呼ばれる所以について記す。姫路城は幕末と太平洋戦争の二度の戦禍を免れた事から「不戦の城」と呼ばれる事がある。しかし、実際にはいずれにおいても戦火が間近に近づく危機にさらされている。幕末の危機は先に述べた通りである。

太平洋戦争にあって姫路城の白壁は非常に目立ち、又、陸軍の部隊が置かれていた姫路はアメリカ軍の爆撃対象とされることは明らかであったため、黒く染めた網で城の主要な部分を覆い隠す事とした。しかし、1945年（昭和20年）7月3日の姫路大空襲で姫路城下は灰燼と帰する。城内にも着弾するが本城跡に有った中学校校舎のみが焼失しただけで、西の丸に着弾した2発は不発あるいはすぐに消火された。また大天守にも焼夷弾が直撃したものの、不発だった（2006年7月23日付神戸新聞記事より。当時、不発弾処理にあたった元士官の証言で明らかになった）など、城本体は奇跡的に炎上を免れた（姫路城は貴重な文化財なので爆撃対象とはされなかったという俗説があるが、日本の他の都市の城郭-例えば名古屋城やドイツにおける無差別爆撃では歴史的建造物も容赦なく破壊されたことから、そのような考えはなかったとするのが一般的である（ラングドン・ウォーナーの項、参照）。また、当時のB-29搭乗員は『レーダーから見れば城も輝く点の一つであり、それを歴史的建造物と認識するのは難しい』と回顧している）。翌朝、焦土の中に無事に建つ姫路城を見て、城下の人々は涙したという。


<a href="http://ban.compora.com/images/20071101002957.jpg" rel="lightbox"><img src="http://ban.compora.com/images/20071101002957_m.jpg" width="200" height="150" alt="姫路城（ひめじじょう）　世界文化遺産・日本　/　BAN　コンポラ　ブログ" border="0" /></a>


昭和の大修理
1928年（昭和3年）に姫路城は史跡指定され、文部省の管理となる（実際の管理は姫路市）。次いで1931年（昭和6年） 天守閣を国宝指定。後に渡櫓等も国宝指定される。ただしこの時点での「国宝」は「旧国宝」と呼ばれるもので、1950年施行の文化財保護法における重要文化財に相当するものである。

昭和の大修理は1934年（昭和9年）、西の丸の渡櫓が豪雨のため石垣もろとも崩壊したのを契機に開始された。全ての建物を一回解体してから部材を修復し、再度組み立て直すという方法がとられる事となった。先に天守以外の建物を手がける事としたが、1944年（昭和19年）太平洋戦争の戦局悪化により中断を余儀なくされる。幸い先述したように空襲の危機を免れ、1950年（昭和25年）に大修理は再開される。1955年（昭和30年）までに天守以外の修理を完了した。

1956年（昭和31年）より天守大修理に着手する事となる。特に天守においては、その全体に巨大な素屋根を掛けて解体・修復工事が行われた。これによって構造物に書き込まれていた様々な文章が発見され、姫路城の研究に大きく役立てられた。一方で基礎は礎石を撤去し（三の丸広場北方にそのままの配置で移動された）、新たに十弁式定盤基礎と称する鉄筋コンクリート製の強固な基礎構造物が姫山の岩盤上に直接構築された。礎石のままでは天守の重量を支えきれないためである。

以前の西心柱（西大柱）天守を解体した時、これを支えていた東西の「心柱」のうち、西の心柱が芯から腐って再利用不能であると判断された。ただちにこれに替わる巨木探しが始まった。兵庫県神崎郡市川町の笠形神社境内の檜が検討されたが、上部に曲がりと根本に腐っている疑いとがあって保留された。1959年になってようやく、岐阜県恵那郡付知町（現中津川市）の山中に最適な檜が発見された。ところが、これは切り出す途中に折れてしまい、その近くで発見されたもう一本は森林鉄道を用いて運搬する途中で、そのあまりの長さ故に折れてしまう。窮余の策として二本目の根本側と笠形神社の檜とを継ぎ合わせて使用される事となった。実は本来の西心柱も二本継ぎで作られており、西心柱は構造上中央部で分割しないと立ち上げ時に先に組み上げられた東心柱に干渉し、狭い作業空間内で正しく組み上げられないのであった。これらの檜は姫路市民総出で大手前通りを祝い引きされ、姫路城内へと運び込まれた。


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天守の修理に当たっては、他に重量低減のため特に工夫を加えて焼成された軽量瓦や、耐震補強のための金具類が新たに使用されている。一方で石垣などそのままで差し支えないと判断されたものはほとんど手を加えられていない。天守の修理は1964年（昭和39年）竣工した。

天守の工事費は約5億3000万円であった。戦前修理分の費用を物価換算して、戦後の費用と合計すれば（1964年当時の価格で）約10億円に相当すると考えられている。

1993年（平成5年）世界遺産（文化遺産）となる。

平成の大修理（予定）
2009年度着工～2011年度竣工予定。工事費は10億円以上とされる。上記の「昭和の大修理」で50年は持つとされていたが漆喰や木材の劣化が進んだため、大天守の漆喰の塗り替え・瓦の葺き替え・耐震補強を重点に予定されている。工期中は修復作業を見学出来る「見せる修復」も検討中とのこと。

姫路城にまつわる物語

伝承
 
お菊井戸刑部明神（おさかべみょうじん）（長壁明神とも） 
姫路城の守護神。もとは刑部氏の氏神であった。大天守最上階に祀られている。 
宮本武蔵の妖怪退治 
時代が合わないため全くの伝説とされるが、武蔵は若い頃豊臣時代の姫路城に奉公していたという。ある夜、天守の妖怪退治を命じられた武蔵は灯りを手に上り、妖怪を追い払った。天守最上階では刑部明神が姫の姿で現れ、武蔵に妖怪退治の礼として銘刀・郷義弘を授けたという。 
姥が石（うばがいし） 
羽柴秀吉が姫山に三層の天守を築いていたとき、城の石垣の石集めに苦労していた。城下で焼き餅を売っていた貧しい老婆がこれを知ると、古くなった石臼を秀吉に差し出した。秀吉は老婆の志に大変喜んだ。この話はたちまち評判となり、人々が競って石を寄進したという。実際に乾小天守北側の石垣には石臼が見られる。他にも古代の石棺が石垣の中に発見されている。石垣に使えそうな石をまさしくかき集めた名残である。 
棟梁源兵衛の伝説 
棟梁・桜井源兵衛は築城の大仕事を終えて、妻と共に天守を見に訪れた。ところが妻は「東南方向に少し傾いているのではないか」と言う。これにショックを受けた源兵衛は天守から鑿（のみ）をくわえて飛び降り自殺してしまったという。秀吉時代の話とされるが史実の源兵衛は輝政時代の棟梁であり、しかも彼が自殺した証拠はない。東南方向に傾いているのは古くからいわれていたことだが、「昭和の大修理」で本当の原因は礎石が沈んだためであると確認された。 
播州皿屋敷 
浄瑠璃などの元となったとされるが、原型となった話は現在の姫路城が出来る以前のものとされる。本丸上山里内に「お菊井戸」が残る。皿屋敷を参照。 
四神相応 
姫路城の東に市川・西に山陽道・北に広峰山・南に播磨灘という配置から、それそれに関わる四神の利益を得られる四神相応の地として見立てられることがあり、さらにそれが播磨ゆかりの陰陽師・道摩法師によって見いだされたという伝説がある。


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文化財

世界遺産
 姫路城
（日本国） 
 
天守 
（英名） Himeji-jo 
（仏名） Himeji-jo 
登録区分 文化遺産 
登録基準 文化遺産(i) (iv) 
登録年 1993年 
拡張年  
備考  
公式サイト ユネスコ本部（英語） 
地図 
 
世界遺産テンプレートを使用しています 
国際記念物遺跡会議(ICOMOS)により、1992年9月と1993年4月、登録後の1993年8月に調査が行われた。登録にあたり、以下の点が優れていると判断された。

木造建築物として建物の容積と配置が絶妙にバランスが取られ、漆喰の城壁を持つ優れた美をもっていること。 
明治以前の封建制度の象徴であること。 
日本の木造建造物として最高のものであること。 
登録地域は、中曲輪より内側となっている。さらにその周囲がバッファゾーンとしての指定を受けている。

登録基準 この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた。

（i） 人類の創造的天才の傑作を表現するもの。 
（iv） 人類の歴史上重要な時代を例証する、ある形式の建造物、建築物群、技術の集積、または景観の顕著な例。 

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         <pubDate>Thu, 01 Nov 2007 00:49:17 +0900</pubDate>
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