2008-02-13
古都奈良の文化財 世界文化遺産
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世界遺産・日本
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古都奈良の文化財(ことならのぶんかざい)は、奈良県奈良市地域に存在する寺院等の総称。1998年12月2日京都市で開催されたユネスコ世界遺産委員会で日本で9件目の世界遺産(文化遺産)として登録された。
東大寺

東大寺(とうだいじ)は、奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の仏教寺院である。現別当(住職)は219世・上野道善。
「金光明四天王護国之寺」(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とし、開山(初代別当)は良弁僧正(ろうべんそうじょう)である。
奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約100メートル)を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。現存する大仏は、台座などの一部に当初の部分を残すのみであり、現存する大仏殿は江戸時代、18世紀初頭の再建で、創建当時の堂に比べ、間口が3分の2に縮小されている。「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで貴賎を問わず広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の本山にあたる「総国分寺」と位置づけられた。

歴史
創建と大仏造立
東大寺の起源は大仏造立よりやや古く、8世紀前半には大仏殿の東方、若草山麓に前身寺院が建てられていた。東大寺の記録である『東大寺要録』によれば、天平5年(733年)、若草山麓に創建された金鐘寺(または金鍾寺(こんしゅじ))が東大寺の起源であるとされる。一方、正史『続日本紀』によれば、神亀5年(728年)、第45代の天皇である聖武天皇と光明皇后が幼くして亡くなった皇子の菩提のため、若草山麓に「山房」を設け、9人の僧を住まわせたことが知られ、これが金鐘寺の前身と見られる。金鐘寺には、8世紀半ばには羂索堂、千手堂が存在したことが記録から知られ、このうち羂索堂は現在の法華堂(=三月堂、本尊は不空羂索観音)を指すと見られる。天平13年(741年)には国分寺建立の詔(みことのり)が発せられ、これを受けて翌天平14年(742年)、金鐘寺は大和国の国分寺と定められ、寺名は金光明寺と改められた。
大仏の鋳造が始まったのは天平19年(747年)で、この頃から「東大寺」の寺号が用いられるようになったと思われる。なお、東大寺建設のための役所である「造東大寺司」が史料に見えるのは天平20年(748年)が最初である。
聖武天皇が大仏造立の詔(みことのり)を発したのはそれより前の天平15年(743年)である。当時、都は恭仁京(くにのみや 京都府相楽郡加茂町)に移されていたが、天皇は恭仁京の北東に位置する紫香楽宮(しがらきのみや 現・滋賀県甲賀市信楽町)におり、大仏造立もここで始められた。聖武天皇は短期間に遷都を繰り返したが、2年後の天平17年(745年)、都が平城京に戻るとともに大仏造立も現在の東大寺の地であらためて行われることになった。この大事業を推進するには幅広い民衆の支持が必要であったため、朝廷から弾圧されていた行基を大僧正として迎え、協力を得た。
難工事の末、大仏の鋳造が終了し、天竺(インド)出身の僧・菩提僊那を導師として大仏開眼会(かいげんえ)が挙行されたのは天平勝宝4年(752年)のことであった。そして、大仏鋳造が終わってから大仏殿の建設工事が始められ、竣工したのは天平宝字2年(758年)のことであった。
東大寺では大仏創建に力のあった良弁、聖武天皇、行基、菩提僊那を「四聖(ししょう)」と呼んでいる。

東大寺と橘奈良麻呂
大仏造立・大仏殿建立のような大規模な建設工事は国費を浪費させ、日本の財政事情を悪化させるという、聖武天皇の思惑とは程遠い事実を突き付けた。実際に、貴族や寺院が富み栄える一方、農民層の負担が激増し、平城京内では浮浪者や餓死者が後を絶たず、租庸調の税制も崩壊寸前になる地方も出るなど、律令政治の大きな矛盾点を浮き彫りにした。
天平勝宝8歳(756年)5月2日、聖武太上天皇が死去する。その年の7月に起こったのが、橘奈良麻呂の乱である。7月4日に逮捕された橘奈良麻呂は、藤原永手の聴取に対して「東大寺などを造営し人民が辛苦している。政治が無道だから反乱を企てた」と謀反を白状した。ここで、永手は、「そもそも東大寺の建立が始まったのは、そなたの父(橘諸兄)の時代である。その口でとやかく言われる筋合いは無いし、それ以前にそなたとは何の因果もないはずだ」と反論したため、奈良麻呂は返答に詰まったと言う。橘奈良麻呂の乱は計画性に乏しく、軽率と言えば、軽率ではあった。しかしながら、反乱の口実にまで東大寺が利用された、ということは、東大寺建立自体が、天皇の理想を実現させる、ただそれだけのために実際の労働状況や財政事情等の問題点を度外視した途方もない、一大プロジェクトであったことをも白日の下にさらした。

奈良時代・平安時代の東大寺
奈良時代の東大寺の伽藍は、南大門、中門、金堂(大仏殿)、講堂が南北方向に一直線に並び、講堂の北側には東・北・西に「コ」の字形に並ぶ僧房(僧の居所)、僧房の東には食堂(じきどう)があり、南大門-中門間の左右には東西2基の七重塔(高さ約100メートルと推定される)が回廊に囲まれて建っていた。天平17年(745年)の起工から、伽藍が一通り完成するまでには40年近い時間を要している。

奈良時代のいわゆる南都六宗(華厳宗、法相宗、律宗、三論宗、成実宗、倶舎宗)は「宗派」というよりは「学派」に近いもので、日本仏教で「宗派」という概念が確立したのは中世以後のことである。そのため、寺院では複数の宗派を兼学することが普通であった。東大寺の場合、近代以降は所属宗派を明示する必要から華厳宗を名乗る[3]が、奈良時代には「六宗兼学の寺」とされ、大仏殿内には各宗の経論を納めた「六宗厨子」があった。平安時代には空海によって寺内に真言院が開かれ、空海が伝えた真言宗、最澄が伝えた天台宗をも加えて「八宗兼学の寺」とされた。
また、平安時代に入ると、桓武天皇の南都仏教抑圧策により「造東大寺所」が廃止されるなどの圧迫を受けるが、後に皇族・貴族の崇敬を受けて黒田庄に代表される多数の荘園を寄進されたり、開発した。やがて、南都の有力権門として内外に知られるようになり、多数の僧兵を抱え、興福寺などと度々強訴を行っている。

中世以降
東大寺は、近隣の興福寺とともに治承4年12月28日(1181年1月15日)の平重衡の兵火で壊滅的な打撃(南都焼討)を受け、大仏殿をはじめとする多くの堂塔を失った。この時、大勧進職に任命され、大仏や諸堂の再興に当たったのが当時61歳の僧・俊乗坊重源であった。重源の精力的な活動により、文治元年(1185年)には後白河法皇らの列席のもと、大仏開眼法要が行われ、建久元年(1190年)には、再建大仏殿が完成、源頼朝らの列席のもと、落慶法要が営まれた。

その後、戦国時代の永禄10年10月10日(1567年11月10日)、三好・松永の戦いの兵火により、大仏殿を含む東大寺の主要堂塔はまたも焼失した(永禄の変参照)。仮堂が建てられたが慶長15年(1610年)の暴風で倒壊し大仏は露座のまま放置された。その後の大仏の修理は元禄4年(1691年)に完成し、再建大仏殿は公慶上人(1648-1705)の尽力や、将軍徳川綱吉や母の桂昌院をはじめ多くの人々による寄進が行われた結果、宝永6年(1709年)に完成した。この3代目の大仏殿(現存)は、高さは天平時代とほぼ同じだが、間口は天平創建時の3分の2に縮小されている。また、講堂、食堂、東西の七重塔など近世以降はついに再建されることはなく、今は各建物跡に礎石のみが残されている。
正倉院

正倉院(しょうそういん)は、奈良市の東大寺大仏殿の北西に位置する、高床の大規模な校倉造(あぜくらづくり)倉庫で、聖武天皇・光明皇后ゆかりの品をはじめとする、天平時代を中心とした多数の美術工芸品を収蔵していた施設。「古都奈良の文化財」の一部としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。
概要

元は東大寺の倉庫であったが、明治以降、国の管理下におかれ、内務省、農商務省と所管省庁は変遷し、1884年宮内省所管となった。第二次大戦後は宮内府を経て、現在は宮内庁の正倉院宝庫及び正倉院宝物を管理する施設等機関である正倉院事務所が管理している。
正倉院の宝物には日本製品、中国(唐)や西域、遠くは ペルシャなどからの輸入品を含めた絵画・書跡・金工・漆工・木工・刀剣・陶器・ガラス器・楽器・仮面など、古代の美術工芸の粋を集めた作品が多く残るほか、奈良時代の日本を知るうえで貴重な史料である正倉院文書(もんじょ)、東大寺大仏開眼法要に関わる歴史的な品や古代の薬品なども所蔵され、文化財の一大宝庫である。シルクロードの東の終点ともいわれる。
正倉院の語義
奈良時代の役所や大寺院には多数の倉が並んでいたことが記録から知られる。「正倉」とは、元来、「正税を収める倉」の意で、律令時代に各地から上納された米穀や物品などを保管するため、大蔵省をはじめとする役所に設けられたものであった。また、大寺にはそれぞれの寺領から納められた品や、寺の什器宝物などを収蔵する倉があった。これを正倉といい、正倉のある一画を塀で囲ったものを「正倉院」といった。南都七大寺にはそれぞれ正倉院があったが、のちに廃絶して東大寺のもののみが残っている。このため、「正倉院」は東大寺大仏殿北西に所在する宝庫を指す固有名詞と化している。
正倉院宝物

756年(天平勝宝8歳)、光明皇后は、夫聖武天皇の七七忌に、天皇遺愛の品約650点と、約60種の薬物を東大寺の廬舎那仏(大仏)に奉献した。その後も光明皇后は3度にわたって、自身や聖武天皇ゆかりの品を大仏に奉献している。これらの献納品については、現存する5種類の「献物帳」と呼ばれる文書に目録が記されている。これらの宝物は正倉院に収められた。
北倉・中倉・南倉
正倉院宝庫は、北倉(ほくそう)、中倉(ちゅうそう)、南倉(なんそう)の3つに区分されている。北倉にはおもに聖武天皇・光明皇后ゆかりの品が収められ、中倉には東大寺の儀式関係品、文書記録、造東大寺司関係品などが収められていた。また、950年(天暦4年)、東大寺内にあった羂索院(けんさくいん)の双倉(ならびくら)が破損した際、そこに収められていた物品が正倉院南倉に移されている。南倉宝物には、仏具類のほか、東大寺大仏開眼会(かいげんえ)に使用された物品なども納められていた。ただし、1185年の後白河法皇による大仏再興時の開眼会に宝物の仏具類が用いられた。そのほか、長い年月の間には、修理などのために宝物が倉から取り出されることがたびたびあり、返納の際に違う倉に戻されたものなどがあって、宝物の所在場所はかなり移動している。 上述のような倉ごとの品物の区分は明治時代以降、近代的な文化財調査が行われるようになってから再整理されたものである。
「献物帳」記載の品がそのまま現存しているわけではなく、武器類、薬物、書巻、楽器などは必要に応じて出蔵され、そのまま戻らなかった品も多い。刀剣類などは恵美押勝の乱の際に大量に持ち出され、「献物帳」記載の品とは別の刀剣が代わりに返納されている。
正倉院の三倉のなかでも特に北倉は聖武天皇・光明皇后ゆかりの品を収めることから、早くから厳重な管理がなされていた。宝庫の扉の開封には勅使(天皇からの使い)が立ち会うことが必要とされていた。なお「勅封」という言葉は本来「天皇の署名入りの紙を鍵に巻きつけて施錠すること」を指す。正倉院宝庫がこの厳密な意味での「勅封」になったのは室町時代以降であるが、平安時代の各種文書記録にも正倉院を「勅封蔵」と表現しており、事実上の勅封であったと見なして差し支えないといわれる。平安時代中期には北・中・南の三倉とも勅封蔵と見なされていたが、東大寺の什器類を納めていた南倉のみは、後に勅封から綱封(東大寺別当らの寺僧組織が管理する)に改められた。1875年(明治8年)、正倉院全体が明治政府の管理下におかれてからは南倉も再び勅封となっている。
建造物としての正倉院

校倉造、屋根は寄棟造、瓦葺。規模は正面約33.1メートル、奥行約9.3メートル、床下の柱の高さ約2.5メートルである。
建立時期は不明だが、光明皇后が夫聖武天皇の遺愛の品を大仏に奉献した756年(天平勝宝8)前後とみるのが通説である。759年(天平宝字3年)以降、宝物出納の記録が残っていることから、この年までに建立されていたことがわかる。当初の正倉院の建物構成についてはわかっておらず、記録によれば、平安末期には現存する宝庫1棟を残すのみであったらしい。
床下には10列×4列の柱を建て、その上に台輪(だいわ)と呼ぶ水平材を置く。この上に北倉と南倉は校木(あぜぎ)という断面三角形の材を20段重ねて壁体をつくり、校倉造とする。ただし、中倉のみは校倉造ではなく、柱と柱の間に厚板を落とし込んだ「板倉」で、構造が異なる。なぜ、中倉のみ構造が異なるのか、当初からこのような形式であったのかどうかについては、諸説ある。奈良時代の文書には、正倉院宝庫のことを「双倉」(そうそう、ならびくら)と称しているものがある。このことから、元来の正倉院は北側と南側の校倉部分のみが倉庫で、中倉にあたる中間部は、壁もなく床板も張らない吹き放しであったため「双倉」と呼ばれたとするのが通説である。
校倉の利点として、湿度の高い時には木材が膨張して外部の湿気が入るのを防ぎ、逆に外気が乾燥している時は木材が収縮して材と材の間に隙間ができて風を通すので、倉庫内の環境を一定に保ち、物の保存に役立ったという説があった。しかし、実際には、重い屋根荷重がかかる校木が伸縮する余地はなく、この説は否定されている。また、この工法はログハウスの丸太組み工法とほぼ同様であることから、『日本最古のログハウス』と称されることもある。
現存する奈良時代の倉庫としてはもっとも規模が大きく、また、奈良時代の「正倉」の実態を伝える唯一の遺構として、建築史的にもきわめて価値の高いものである。
校倉造の宝庫は長年、宝物を守ってきたが、1952年に鉄筋コンクリート造の東宝庫、1962年には同じく鉄筋コンクリート造の西宝庫が完成し、翌1963年、宝物類はそちらへ移された。現在、宝物の大部分は西宝庫に収納、東宝庫には修理中の品や、西宝庫に収納スペースのない、大量の染織品が収納されている。勅封はこの宝庫に施されている。
興福寺

興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある、南都六宗の一つ、法相宗の大本山の寺院である。南都七大寺の一つに数えられる。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。南円堂は西国三十三箇所第9番札所である。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。
起源と歴史

創建
藤原氏の祖である藤原鎌足(614年-669年)夫人の鏡王女(かがみのおおきみ)が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、天智天皇8年(669年)山背国(山城国)山階(京都市山科区)に創建した山階寺(やましなでら)が当寺の起源である。壬申の乱のあった天武天皇元年(672年)、山階寺は藤原京に移り、地名(高市郡厩坂)をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。

和銅3年(710年)の平城遷都に際し、鎌足の子息である藤原不比等(659年-720年)は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し、「興福寺」と名付けた。この710年が実質的な興福寺の創建年といえる。中金堂の建築は平城遷都後まもなく開始されたものと見られる。
その後も、天皇や皇后、また藤原家によって堂塔が建てられ整備が進められた。不比等が没した養老4年(720年)には「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ、元来、藤原氏の私寺である興福寺の造営は国家の手で進められるようになった。

南都北嶺
興福寺は奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、特に摂関家藤原北家との関係が深かったために手厚く保護された。平安時代には春日社の実権をもち、大和国一国の荘園のほとんどを領して事実上の同国の国主となった。その勢力の強大さは、比叡山延暦寺とともに「南都北嶺」(なんとほくれい)と称された。寺の周辺には子院と称する多くの付属寺院が建てられ、最盛期には百か院以上を数えたが、中でも天禄元年(970年)定昭の創立した一乗院と寛治元年(1087年)隆禅の創立した大乗院は皇族・摂関家の子弟が入寺する門跡寺院として栄えた。
鎌倉・室町時代には幕府は大和国に守護を置かず、興福寺がその任に当たる。文禄4年(1595年)の検地では、春日社興福寺合体の知行として2万1千余石とされた。

平重衡の兵火による焼失
興福寺は、創建以来たびたび火災に見まわれたが、その都度再建を繰り返してきた。中でも治承4年(1180年)、源平の争いの最中、平重衡の兵火による被害は甚大であった(南都焼討)。 東大寺とともに大半の伽藍が焼失した。この時、興福寺再興に奔走したのは回禄直後に別当職に就いた信円と解脱上人貞慶であった。現存の興福寺の建物はすべてこの火災以後のものである。なお仏像をはじめとする寺宝類も多数が焼失したため、現存するものはこの火災以後の鎌倉復興期に制作されたものが多い。興福寺を拠点とした運慶ら慶派仏師の手になる仏像もこの時期に数多く作られている。
江戸時代の享保2年(1717年)の火災の時は、時代背景の変化もあって大規模な復興はなされず、この時焼けた西金堂、講堂、南大門などはついに再建されずじまいであった。
廃仏毀釈による破壊
明治元年(1868)に出された神仏分離令は、全国に廃仏毀釈の嵐を巻き起こし、春日社と一体の信仰が行われていた興福寺は直接打撃をこうむった。子院はすべて廃止、寺領は没収され、僧は春日社の神職となり、境内は塀が取り払われ、樹木が植えられて、奈良公園の一部となってしまった。一時は廃寺同然となり、五重塔、三重塔さえ売りに出る始末だった。

行き過ぎた廃仏政策が反省されだした1881年(明治14年)、ようやく興福寺の再興が許可された。1897年(明治30年)、文化財保護法の前身である「古社寺保存法」が公布されると、興福寺の諸堂塔も修理が行われ、徐々に寺観が整備されて現代に至っている。 しかし、興福寺に塀が無く公園の中に寺院がある状態、「信仰の動線」が欠落していると称される状態は、このとき残された傷跡である。
春日大社

春日大社(かすがたいしゃ)は、奈良県奈良市の奈良公園内にある神社である。旧称春日神社。式内社(名神大社)、二十二社の一社で、旧社格は官幣大社。全国にある春日神社の総本社である。
藤原氏の守護神である武甕槌命と経津主命、祖神である天児屋根命と比売神を祀る。四神をもって藤原氏の氏神とされ、春日神と総称される。武甕槌命が白鹿に乗ってやってきたとされることから、鹿が神使とされる。
歴史

奈良・平城京に遷都された710年(和銅3年)、藤原不比等が藤原氏の氏神である鹿島神(武甕槌命)を春日の御蓋山に遷して祀り、春日神と称したのに始まる。社伝では、768年(神護景雲2年)に藤原永手が鹿島の武甕槌命、香取の経津主命と、枚岡神社に祀られていた天児屋根命・比売神を併せ、御蓋山の麓の四殿の社殿を造営したのをもって創祀としている。ただし、近年の境内の発掘調査により、神護景雲以前よりこの地で祭祀が行われていた可能性も出てきている。
藤原氏の隆盛とともに当社も隆盛した。平安時代初期には官祭が行われるようになった。当社の例祭である春日祭は、賀茂神社の葵祭、石清水八幡宮の石清水祭とともに三勅祭の一つとされる。850年(嘉承3年)には武甕槌命・経津主命が、940年(天慶3年)には、朝廷から天児屋根命が最高位である正一位の神階を授かった。延喜式神名帳には「大和国添上郡 春日祭神四座」と記載され、名神大社に列し、月次・新嘗の幣帛に預ると記されている。
藤原氏の氏神・氏寺の関係から興福寺との関係が深く、813年(弘仁4年)、藤原冬嗣が興福寺南円堂を建立した際、その本尊の不空絹索観音が、当社の祭神・武甕槌命の本地仏とされた。神仏習合が進むにつれ、春日大社と興福寺は一体のものとなっていった。11世紀末から興福寺衆徒らによる強訴がたびたび行われるようになったが、その手段として、春日大社の神霊を移した榊の木(神木)を奉じて上洛する「神木動座」があった。
明治4年に春日神社に改称し、官幣大社に列した。1945年(昭和21年)12月に現在の春日大社に改称した。
施設

本殿
春日造の本殿が四殿並んで建っており、第一殿に武甕槌命、第二殿に経津主命、第三殿に天児屋根命、第四殿に比売神が祀られている。拝殿はなく、一般の参拝者は幣殿の前にて、初穂料を納めて特別拝観を申し込んだ場合は本殿前の中門から参拝することになる。
摂末社
広大な境内には多数の摂末社がある。本殿の東側には比売神の御子神として天押雲根命を祀る摂社若宮神社があり、若宮神社、夫婦大国社を始めとする本殿東側の十二社は、「福の神十二社めぐり」として古来より崇敬を集めている。
本殿廻廊の西南隅には、摂社・榎本神社(式内小社)がある。榎本神社の祭神は当地の地主神であり、元々この地で祀られていた神であるとされる。現在の祭神は猿田彦大神であるが、中世までは巨勢姫明神とされていた。
元興寺

元興寺 (がんごうじ)は、奈良市にある、南都七大寺の1つに数えられる寺院。蘇我馬子が飛鳥に建立した、日本最古の本格的仏教寺院である法興寺がその前身である。法興寺は平城京遷都に伴って飛鳥から新都へ移転し、元興寺となった(ただし、飛鳥の法興寺も元の場所に残り、今日の飛鳥寺となっている)。奈良時代には近隣の東大寺、興福寺と並ぶ大寺院であったが、中世以降次第に衰退して、現在は次の2つの寺院に分かれている。
(1) 奈良市中院町所在の元興寺。1977年までは「元興寺極楽坊」と称していた。西大寺の末寺で、宗派は真言律宗に属する。本尊は智光曼荼羅である。
(2) 奈良市芝新屋町所在の元興寺。東大寺の末寺で、宗派は華厳宗に属する。本尊は十一面観音である。
奈良市中院町の元興寺は「古都奈良の文化財」の一部として、世界遺産にも登録されている。上記2つの元興寺は、もともと同じ寺院の一部であるので、本項ではまとめて述べることとする。
起源と歴史

現在、「史跡元興寺」として指定されている地域は 奈良市中院町の「元興寺極楽坊」、同市芝新屋町の「元興寺(塔跡)」同市西新屋町の「元興寺小塔院跡」の3か所である。これらはいずれも、蘇我馬子が6世紀末、飛鳥に建立した日本最古の本格的寺院、法興寺(現在の飛鳥寺)の後身である。
和銅3年(710年)の平城京遷都に伴って、飛鳥にあった薬師寺、厩坂寺(のちの興福寺)、大官大寺(のちの大安寺)などは新都へ移転した。法興寺は養老2年(718年)平城京へ移転したが、飛鳥の法興寺も廃止はされずに元の場所に残った。通常、飛鳥にある寺を「法興寺」、平城京の方の寺を「元興寺」と称している。「法興」も「元興」も、日本で最初に仏法が興隆した寺院であるとの意である。
奈良時代の元興寺は三論宗と法相宗の道場として栄え、東大寺や興福寺と並ぶ大伽藍を誇っていた。寺域は南北4町(約440メートル)、東西2町(約220メートル)と南北に細長く、興福寺の南にある猿沢池の南方、今日「奈良町(ならまち)」と通称される地区の大部分が元は元興寺の境内であった。猿沢池南東側にある交番のあたりが旧境内の北東端、奈良市音声館(奈良市鳴川町)のあたりが旧境内の南西端にあたる。

奈良においては東大寺、興福寺が勢力を増す一方で、元興寺は平安時代後半あたりから徐々に衰退していった。11世紀前半の「堂舎損色検録帳」という史料によると、金堂をはじめとする元興寺の伽藍は、この頃には荒れ果てて見る影もなかったという。元興寺には奈良時代の学僧・智光が描かせた阿弥陀浄土図(智光曼荼羅)があったが、平安末期の末法思想の流行や阿弥陀信仰の隆盛とともにこの曼荼羅が信仰を集めるようになった。曼荼羅を祀る堂は「極楽坊」と呼ばれて、次第に元興寺本体とは別の寺院として発展するようになった。これが現在、奈良市中院町にある元興寺、通称元興寺極楽坊である。現存する元興寺極楽坊の本堂と禅室は、奈良時代に智光をはじめとする僧たちが住んでいた僧房を鎌倉時代に改築したものである。
室町時代の宝徳3年(1451年)、土一揆のあおりで元興寺は炎上し、五重塔などはかろうじて残ったが、金堂など主要堂宇や智光曼荼羅の原本は焼けてしまった。この頃を境に、寺は智光曼荼羅を祀る「極楽院」、五重塔を中心とする「元興寺観音堂」、それに「小塔院」の3つの寺院に分裂した。極楽院は奈良西大寺の末寺となって真言律宗寺院となり、中世以降は智光曼荼羅、弘法大師、聖徳太子などの民間信仰の寺院として栄えた。
一方、極楽院の南にある「元興寺観音堂」の方は東大寺の末寺となり、五重塔を中心とする寺院であったが、室町時代の火災に焼け残った創建遺構の五重塔と観音堂は、江戸時代末期の安政6年(1859年)についに焼失し、以後は「元興寺」の寺号は継ぐものの衰退している。
極楽院は明治以降は荒れ果て、現在国宝に指定されている本堂も1950年ころまでは床は落ち、屋根は破れて「化け物が出る」と言われたほどの荒れ方であった。第二次世界大戦中の1943年に極楽院の住職となった辻村泰圓は戦災孤児のための社会福祉事業に尽力するかたわら、境内の整備や建物の修理を進めた。1962年には辻村により境内に財団法人元興寺仏教民俗資料研究所が設立され(1978年に元興寺文化財研究所と改称)、1965年には寺宝を収蔵展示する収蔵庫が完成するなど、徐々に整備が進んだ。元興寺仏教民俗資料研究所は、本堂解体修理中に屋根裏から発見された数万点の庶民信仰資料(板塔婆など)を研究することを当初の目的として設立された。極楽院は1955年に「元興寺極楽坊」と改称、さらに1977年に「元興寺」と改称されている。
薬師寺

薬師寺(やくしじ)は、奈良県奈良市西ノ京町に所在する寺院であり、興福寺とともに法相宗の大本山である。南都七大寺のひとつに数えられる。本尊は薬師如来、開基(創立者)は天武天皇である。1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。現・管主は安田暎胤である。
歴史

薬師寺は7世紀末、飛鳥(奈良県橿原市城殿(きどの)町)の地に創建され、平城遷都後の8世紀初めに現在地に移転したものである。ただし、飛鳥の薬師寺も10世紀頃までは引き続き存続していたと見られる。
創建
『日本書紀』によれば、薬師寺は天武天皇9年(680年)、天武天皇が後の持統天皇である鵜野讃良皇后(うののさららこうごう)の病気平癒を祈願し、飛鳥の地に創建したものである。薬師寺東塔の屋上にある相輪支柱に刻まれた「東塔さつ銘」(「さつ」は木扁に「察」)にも同趣旨の記述がある。しかし、天武天皇は寺の完成を見ずに朱鳥元年(686年)没し、伽藍整備は持統天皇、文武天皇の代に引き継がれた。持統天皇2年(688年)、薬師寺にて無遮大会(むしゃだいえ)という行事が行われたことが『書紀』に見え、この頃までにはある程度伽藍が整っていたものと思われる。『続日本紀』によれば、文武天皇2年(698年)には寺の造営がほぼ完成し、僧を住まわせている。この、飛鳥の薬師寺跡は大和三山の畝傍山と香久山の中間にあたる橿原市城殿町に残り、「本薬師寺(もとやくしじ)跡」として特別史跡に指定されている。
平城移転
その後、和銅3年(710年)の平城京への遷都に際して、薬師寺は飛鳥から平城京の六条大路に面した現在地に移転した。移転の時期は長和4年(1015年)成立の『薬師寺縁起』が伝えるところによれば養老2年(718年)のことであった。『扶桑略記』天平2年(730年)3月29日条に、「始薬師寺東塔立」とあり、東塔(三重塔)が完成したのがその年のことで、その頃まで造営が続いていたものと思われる。
なお、平城京への移転後も、飛鳥の薬師寺(本薬師寺)はしばらく存続していた。史料や発掘調査の結果からは平安時代中期、10世紀ころまでは存続していたようだが、後に廃寺となった。本薬師寺跡には金堂・東塔の礎石、西塔の心礎が残り、堂塔の平面規模、金堂と塔との距離などが平城薬師寺とほぼ等しいことがわかっている。
平城京の薬師寺は天禄4年(973年)の火災と享禄元年(1528年)の筒井順興の兵火で多くの建物を失った。現在、奈良時代の建物は東塔を残すのみである。

移建・非移建論争
平城京の薬師寺にある東塔や本尊薬師三尊像が本薬師寺から移されたものか、平城京で新たにつくられたものかについては明治時代以来論争がある。21世紀の現在では、東塔は平城京での新築、本尊は本薬師寺からの移座とするのが、ほぼ通説となっているが、論争は完全に決着したわけではない。
11世紀成立の『薬師寺縁起』に引用される奈良時代の古縁起に「薬師寺には塔が4基あり、うち2基は本寺にある」という趣旨の記載があり、ある時期までは平城と飛鳥の両薬師寺にそれぞれ2基の塔があったと解釈されることから、町田甲一らはこれを非移建説の根拠の1つとしている。現存する東塔に、他所から解体移築した痕跡の見られないことからも、東塔については『扶桑略記』の記述どおり、平城移転後の新築と見る説が有力である。ただし、平城薬師寺の境内からは本薬師寺から出土するのと同様の古い様式の瓦も出土しており、平城薬師寺の伽藍が全て新築で、飛鳥からの移築は全くなかったとまでは言い切れない。
発掘調査の結果、平城薬師寺の廻廊は当初単廊(柱が2列)として計画されたものが、途中で複廊(柱が3列、通路が2列)に設計変更されたことが判明している。このことから、当初は本薬師寺の建物を一部移築しようとしていたものを、途中で計画変更したのではないかとする説もある。
金堂本尊薬師三尊像については、『日本書紀』に見える、「持統天皇2年(688年)、薬師寺にて無遮大会(むしゃだいえ)が行われた」との記述を重視し、この年までには造立されて、後に平城薬師寺に移されたとする説が有力である。ただし、主に様式の面から平城移転後の新造とする 説もなお根強い。
金堂・西塔などの再建
20世紀半ばまでの薬師寺には、江戸時代末期仮再建の金堂、講堂がわびしく建ち、創建当時の華麗な伽藍をしのばせるものは焼け残った東塔だけであった。1960年代以降、名物管長として知られた高田好胤(たかだこういん)が中心となって写経勧進による白鳳伽藍復興事業が進められ、1976年に金堂が再建されたのをはじめ、西塔、中門、回廊、大講堂などが次々と再建された。
唐招提寺

唐招提寺(とうしょうだいじ)は、奈良市五条町にある鑑真ゆかりの寺院。南都六宗の1つである律宗の総本山である。本尊は廬舎那仏、開基(創立者)は鑑真である。井上靖の小説『天平の甍』で広く知られるようになった中国・唐出身の僧鑑真が晩年を過ごした寺であり、奈良時代建立の金堂、講堂をはじめ、多くの文化財を有する。
起源と歴史
『続日本紀』等によれば、唐招提寺は唐僧・鑑真が天平宝字3年(759年)、故・新田部親王(にいたべしんのう、天武天皇第7皇子)の旧宅跡を朝廷から譲り受け、寺としたものである。寺名の「招提」は、サンスクリット由来の中国語で、元来は「四方」「広い」などの意味を表わす語であったが、「寺」「院」「精舎」「蘭若」などと同様、仏教寺院(私寺)を指す一般名詞として使われていた。つまり、本寺の寺名の由来としては、「唐僧である鑑真和上のための寺」というような意味合いであるとされている。

鑑真の渡日と戒律の伝来
鑑真(688年 - 763年)の生涯については、日本に同行した弟子の思託が記した『大和上伝』、それをもとにした淡海三船(おうみのみふね)の『唐大和上東征伝』、井上靖の『天平の甍』などに詳しい。
鑑真は仏教者に戒律を授ける導師「伝戒の師」として日本に招請された。「戒律」とは「規範」「きまり」といった意味で、仏教者が日常生活上守らなければならない事柄であり、一般の仏教信者に授ける「菩薩戒」と、正式の僧に授ける「具足戒」とがある。出家者が正式の僧となるためには、「戒壇」という施設で、有資格者の僧から「具足戒」を受けねばならないが、当時(8世紀前半)の日本には正式の戒壇はなく、戒律を授ける資格のある僧も不足していた。天平5年(733年)、遣唐使とともに渡唐した留学僧の普照と栄叡(ようえい)は、日本に正式の戒壇を設立するため、しかるべき導師を招請するよう、朝廷からの命を受けていた。彼らが揚州(現・江蘇省)の高僧鑑真に初めて会ったのは西暦742年のことであった。鑑真は渡日を承諾するが、当時の航海は命がけで、鑑真は足掛け12年の間に5回も渡航に失敗、5回目の航海では中国最南端の海南島まで流され、それまで行動をともにしてきた栄叡を失い、自らは失明するという苦難を味わった。753年、6回目の渡航でようやく来日に成功するが、この時も国禁を犯し、日本の遣唐使船に便乗しての渡航であった。鑑真は当時すでに66歳になっていた。
天平勝宝5年(753年)12月、薩摩(琉球ともいう)に上陸した鑑真は、翌天平勝宝6年(754年)2月、ようやく難波津(大阪)に上陸し、同年、東大寺大仏殿前で、聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇らに菩薩戒を授けた。日本で過ごした晩年の10年間のうち、前半5年間を東大寺で過ごした後、天平宝字3年(759年)、前述のように、今の唐招提寺の地を与えられた。
伽藍の整備
唐招提寺の寺地は平城京の右京五条二坊に位置した新田部親王邸跡地で、広さは4町であった。境内の発掘調査の結果、新田部親王邸と思われる前身建物跡が検出されている。また、境内から出土した古瓦のうち、単純な幾何学文の瓦(重圏文軒丸瓦と重弧文軒平瓦の組み合わせ)は、新田部親王邸のものと推定されている。寺内に現存する2棟の校倉造倉庫のうち、経蔵は新田部親王宅の倉庫を改造したものと思われるが、他に新田部親王時代の建物はない。
『招提寺建立縁起』(『諸寺縁起集』所収)に、寺内の建物の名称とそれらの建物は誰の造営によるものであるかが記されている。それによると、金堂は鑑真の弟子でともに来日した如宝(? - 815年)の造営、食堂(じきどう)は藤原仲麻呂家の施入(寄進)、羂索堂(けんじゃくどう)は藤原清河家の施入であった。また、講堂は、平城宮の東朝集殿を移築改造したものであった。金堂は8世紀後半の宝亀年間(770 - 780年)の建築と推定され、この推定通りとすれば鑑真の没後に建立されたものである。
伽藍の造営は鑑真の弟子の如宝、孫弟子の豊安(ぶあん)の代にまで引き継がれた。平安時代以後、一時衰退したが、鎌倉時代の僧・覚盛(かくじょう、1193-1249)によって復興された。
平城宮

平城宮(へいじょうきゅう)は710年に遷都した奈良の都平城京の大内裏。平城京の北端に置かれ、天皇の住まいである内裏と、儀式を行う朝堂院、役人が執務を行う官衙(役所)から成り、約120haを占めていた。


平安京遷都後は放棄され、農地となっていた。明治時代に建築史家、関野貞が田んぼの中にある小高い芝地が大極殿(第二次)の基壇であることを発見、平城宮址(へいじょうきゅうし)は1922年に国の史跡に指定された(後に特別史跡)。のちに址(し・あと)が常用漢字外であるため平城宮跡(へいじょうきゅうせき)と書かれるようになる。

春日山原始林

春日山原生林(かすがやまげんせいりん)は、春日大社の山として神聖視され、樹木伐採が長らく(千年以上に渡り)禁じられてきたため、森林が極相に達した原生林が広がっている地域である。
市街地(奈良市)に近接して原生林が存在することは極めて珍しく、保護の対象にするべきとして、特別天然記念物に指定されており、うち春日山の照葉樹林は国の名勝にも指定されている。また、古都奈良の文化財の一部として世界遺産にも指定されている。

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古都奈良の文化財(ことならのぶんかざい)は、奈良県奈良市地域に存在する寺院等の総称。1998年12月2日京都市で開催されたユネスコ世界遺産委員会で日本で9件目の世界遺産(文化遺産)として登録された。
東大寺

東大寺(とうだいじ)は、奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の仏教寺院である。現別当(住職)は219世・上野道善。
「金光明四天王護国之寺」(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とし、開山(初代別当)は良弁僧正(ろうべんそうじょう)である。
奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約100メートル)を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。現存する大仏は、台座などの一部に当初の部分を残すのみであり、現存する大仏殿は江戸時代、18世紀初頭の再建で、創建当時の堂に比べ、間口が3分の2に縮小されている。「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで貴賎を問わず広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の本山にあたる「総国分寺」と位置づけられた。

歴史
創建と大仏造立
東大寺の起源は大仏造立よりやや古く、8世紀前半には大仏殿の東方、若草山麓に前身寺院が建てられていた。東大寺の記録である『東大寺要録』によれば、天平5年(733年)、若草山麓に創建された金鐘寺(または金鍾寺(こんしゅじ))が東大寺の起源であるとされる。一方、正史『続日本紀』によれば、神亀5年(728年)、第45代の天皇である聖武天皇と光明皇后が幼くして亡くなった皇子の菩提のため、若草山麓に「山房」を設け、9人の僧を住まわせたことが知られ、これが金鐘寺の前身と見られる。金鐘寺には、8世紀半ばには羂索堂、千手堂が存在したことが記録から知られ、このうち羂索堂は現在の法華堂(=三月堂、本尊は不空羂索観音)を指すと見られる。天平13年(741年)には国分寺建立の詔(みことのり)が発せられ、これを受けて翌天平14年(742年)、金鐘寺は大和国の国分寺と定められ、寺名は金光明寺と改められた。
大仏の鋳造が始まったのは天平19年(747年)で、この頃から「東大寺」の寺号が用いられるようになったと思われる。なお、東大寺建設のための役所である「造東大寺司」が史料に見えるのは天平20年(748年)が最初である。
聖武天皇が大仏造立の詔(みことのり)を発したのはそれより前の天平15年(743年)である。当時、都は恭仁京(くにのみや 京都府相楽郡加茂町)に移されていたが、天皇は恭仁京の北東に位置する紫香楽宮(しがらきのみや 現・滋賀県甲賀市信楽町)におり、大仏造立もここで始められた。聖武天皇は短期間に遷都を繰り返したが、2年後の天平17年(745年)、都が平城京に戻るとともに大仏造立も現在の東大寺の地であらためて行われることになった。この大事業を推進するには幅広い民衆の支持が必要であったため、朝廷から弾圧されていた行基を大僧正として迎え、協力を得た。
難工事の末、大仏の鋳造が終了し、天竺(インド)出身の僧・菩提僊那を導師として大仏開眼会(かいげんえ)が挙行されたのは天平勝宝4年(752年)のことであった。そして、大仏鋳造が終わってから大仏殿の建設工事が始められ、竣工したのは天平宝字2年(758年)のことであった。
東大寺では大仏創建に力のあった良弁、聖武天皇、行基、菩提僊那を「四聖(ししょう)」と呼んでいる。

東大寺と橘奈良麻呂
大仏造立・大仏殿建立のような大規模な建設工事は国費を浪費させ、日本の財政事情を悪化させるという、聖武天皇の思惑とは程遠い事実を突き付けた。実際に、貴族や寺院が富み栄える一方、農民層の負担が激増し、平城京内では浮浪者や餓死者が後を絶たず、租庸調の税制も崩壊寸前になる地方も出るなど、律令政治の大きな矛盾点を浮き彫りにした。
天平勝宝8歳(756年)5月2日、聖武太上天皇が死去する。その年の7月に起こったのが、橘奈良麻呂の乱である。7月4日に逮捕された橘奈良麻呂は、藤原永手の聴取に対して「東大寺などを造営し人民が辛苦している。政治が無道だから反乱を企てた」と謀反を白状した。ここで、永手は、「そもそも東大寺の建立が始まったのは、そなたの父(橘諸兄)の時代である。その口でとやかく言われる筋合いは無いし、それ以前にそなたとは何の因果もないはずだ」と反論したため、奈良麻呂は返答に詰まったと言う。橘奈良麻呂の乱は計画性に乏しく、軽率と言えば、軽率ではあった。しかしながら、反乱の口実にまで東大寺が利用された、ということは、東大寺建立自体が、天皇の理想を実現させる、ただそれだけのために実際の労働状況や財政事情等の問題点を度外視した途方もない、一大プロジェクトであったことをも白日の下にさらした。

奈良時代・平安時代の東大寺
奈良時代の東大寺の伽藍は、南大門、中門、金堂(大仏殿)、講堂が南北方向に一直線に並び、講堂の北側には東・北・西に「コ」の字形に並ぶ僧房(僧の居所)、僧房の東には食堂(じきどう)があり、南大門-中門間の左右には東西2基の七重塔(高さ約100メートルと推定される)が回廊に囲まれて建っていた。天平17年(745年)の起工から、伽藍が一通り完成するまでには40年近い時間を要している。

奈良時代のいわゆる南都六宗(華厳宗、法相宗、律宗、三論宗、成実宗、倶舎宗)は「宗派」というよりは「学派」に近いもので、日本仏教で「宗派」という概念が確立したのは中世以後のことである。そのため、寺院では複数の宗派を兼学することが普通であった。東大寺の場合、近代以降は所属宗派を明示する必要から華厳宗を名乗る[3]が、奈良時代には「六宗兼学の寺」とされ、大仏殿内には各宗の経論を納めた「六宗厨子」があった。平安時代には空海によって寺内に真言院が開かれ、空海が伝えた真言宗、最澄が伝えた天台宗をも加えて「八宗兼学の寺」とされた。
また、平安時代に入ると、桓武天皇の南都仏教抑圧策により「造東大寺所」が廃止されるなどの圧迫を受けるが、後に皇族・貴族の崇敬を受けて黒田庄に代表される多数の荘園を寄進されたり、開発した。やがて、南都の有力権門として内外に知られるようになり、多数の僧兵を抱え、興福寺などと度々強訴を行っている。

中世以降
東大寺は、近隣の興福寺とともに治承4年12月28日(1181年1月15日)の平重衡の兵火で壊滅的な打撃(南都焼討)を受け、大仏殿をはじめとする多くの堂塔を失った。この時、大勧進職に任命され、大仏や諸堂の再興に当たったのが当時61歳の僧・俊乗坊重源であった。重源の精力的な活動により、文治元年(1185年)には後白河法皇らの列席のもと、大仏開眼法要が行われ、建久元年(1190年)には、再建大仏殿が完成、源頼朝らの列席のもと、落慶法要が営まれた。

その後、戦国時代の永禄10年10月10日(1567年11月10日)、三好・松永の戦いの兵火により、大仏殿を含む東大寺の主要堂塔はまたも焼失した(永禄の変参照)。仮堂が建てられたが慶長15年(1610年)の暴風で倒壊し大仏は露座のまま放置された。その後の大仏の修理は元禄4年(1691年)に完成し、再建大仏殿は公慶上人(1648-1705)の尽力や、将軍徳川綱吉や母の桂昌院をはじめ多くの人々による寄進が行われた結果、宝永6年(1709年)に完成した。この3代目の大仏殿(現存)は、高さは天平時代とほぼ同じだが、間口は天平創建時の3分の2に縮小されている。また、講堂、食堂、東西の七重塔など近世以降はついに再建されることはなく、今は各建物跡に礎石のみが残されている。
正倉院

正倉院(しょうそういん)は、奈良市の東大寺大仏殿の北西に位置する、高床の大規模な校倉造(あぜくらづくり)倉庫で、聖武天皇・光明皇后ゆかりの品をはじめとする、天平時代を中心とした多数の美術工芸品を収蔵していた施設。「古都奈良の文化財」の一部としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。
概要

元は東大寺の倉庫であったが、明治以降、国の管理下におかれ、内務省、農商務省と所管省庁は変遷し、1884年宮内省所管となった。第二次大戦後は宮内府を経て、現在は宮内庁の正倉院宝庫及び正倉院宝物を管理する施設等機関である正倉院事務所が管理している。
正倉院の宝物には日本製品、中国(唐)や西域、遠くは ペルシャなどからの輸入品を含めた絵画・書跡・金工・漆工・木工・刀剣・陶器・ガラス器・楽器・仮面など、古代の美術工芸の粋を集めた作品が多く残るほか、奈良時代の日本を知るうえで貴重な史料である正倉院文書(もんじょ)、東大寺大仏開眼法要に関わる歴史的な品や古代の薬品なども所蔵され、文化財の一大宝庫である。シルクロードの東の終点ともいわれる。
正倉院の語義
奈良時代の役所や大寺院には多数の倉が並んでいたことが記録から知られる。「正倉」とは、元来、「正税を収める倉」の意で、律令時代に各地から上納された米穀や物品などを保管するため、大蔵省をはじめとする役所に設けられたものであった。また、大寺にはそれぞれの寺領から納められた品や、寺の什器宝物などを収蔵する倉があった。これを正倉といい、正倉のある一画を塀で囲ったものを「正倉院」といった。南都七大寺にはそれぞれ正倉院があったが、のちに廃絶して東大寺のもののみが残っている。このため、「正倉院」は東大寺大仏殿北西に所在する宝庫を指す固有名詞と化している。
正倉院宝物

756年(天平勝宝8歳)、光明皇后は、夫聖武天皇の七七忌に、天皇遺愛の品約650点と、約60種の薬物を東大寺の廬舎那仏(大仏)に奉献した。その後も光明皇后は3度にわたって、自身や聖武天皇ゆかりの品を大仏に奉献している。これらの献納品については、現存する5種類の「献物帳」と呼ばれる文書に目録が記されている。これらの宝物は正倉院に収められた。
北倉・中倉・南倉
正倉院宝庫は、北倉(ほくそう)、中倉(ちゅうそう)、南倉(なんそう)の3つに区分されている。北倉にはおもに聖武天皇・光明皇后ゆかりの品が収められ、中倉には東大寺の儀式関係品、文書記録、造東大寺司関係品などが収められていた。また、950年(天暦4年)、東大寺内にあった羂索院(けんさくいん)の双倉(ならびくら)が破損した際、そこに収められていた物品が正倉院南倉に移されている。南倉宝物には、仏具類のほか、東大寺大仏開眼会(かいげんえ)に使用された物品なども納められていた。ただし、1185年の後白河法皇による大仏再興時の開眼会に宝物の仏具類が用いられた。そのほか、長い年月の間には、修理などのために宝物が倉から取り出されることがたびたびあり、返納の際に違う倉に戻されたものなどがあって、宝物の所在場所はかなり移動している。 上述のような倉ごとの品物の区分は明治時代以降、近代的な文化財調査が行われるようになってから再整理されたものである。
「献物帳」記載の品がそのまま現存しているわけではなく、武器類、薬物、書巻、楽器などは必要に応じて出蔵され、そのまま戻らなかった品も多い。刀剣類などは恵美押勝の乱の際に大量に持ち出され、「献物帳」記載の品とは別の刀剣が代わりに返納されている。
正倉院の三倉のなかでも特に北倉は聖武天皇・光明皇后ゆかりの品を収めることから、早くから厳重な管理がなされていた。宝庫の扉の開封には勅使(天皇からの使い)が立ち会うことが必要とされていた。なお「勅封」という言葉は本来「天皇の署名入りの紙を鍵に巻きつけて施錠すること」を指す。正倉院宝庫がこの厳密な意味での「勅封」になったのは室町時代以降であるが、平安時代の各種文書記録にも正倉院を「勅封蔵」と表現しており、事実上の勅封であったと見なして差し支えないといわれる。平安時代中期には北・中・南の三倉とも勅封蔵と見なされていたが、東大寺の什器類を納めていた南倉のみは、後に勅封から綱封(東大寺別当らの寺僧組織が管理する)に改められた。1875年(明治8年)、正倉院全体が明治政府の管理下におかれてからは南倉も再び勅封となっている。
建造物としての正倉院

校倉造、屋根は寄棟造、瓦葺。規模は正面約33.1メートル、奥行約9.3メートル、床下の柱の高さ約2.5メートルである。
建立時期は不明だが、光明皇后が夫聖武天皇の遺愛の品を大仏に奉献した756年(天平勝宝8)前後とみるのが通説である。759年(天平宝字3年)以降、宝物出納の記録が残っていることから、この年までに建立されていたことがわかる。当初の正倉院の建物構成についてはわかっておらず、記録によれば、平安末期には現存する宝庫1棟を残すのみであったらしい。
床下には10列×4列の柱を建て、その上に台輪(だいわ)と呼ぶ水平材を置く。この上に北倉と南倉は校木(あぜぎ)という断面三角形の材を20段重ねて壁体をつくり、校倉造とする。ただし、中倉のみは校倉造ではなく、柱と柱の間に厚板を落とし込んだ「板倉」で、構造が異なる。なぜ、中倉のみ構造が異なるのか、当初からこのような形式であったのかどうかについては、諸説ある。奈良時代の文書には、正倉院宝庫のことを「双倉」(そうそう、ならびくら)と称しているものがある。このことから、元来の正倉院は北側と南側の校倉部分のみが倉庫で、中倉にあたる中間部は、壁もなく床板も張らない吹き放しであったため「双倉」と呼ばれたとするのが通説である。
校倉の利点として、湿度の高い時には木材が膨張して外部の湿気が入るのを防ぎ、逆に外気が乾燥している時は木材が収縮して材と材の間に隙間ができて風を通すので、倉庫内の環境を一定に保ち、物の保存に役立ったという説があった。しかし、実際には、重い屋根荷重がかかる校木が伸縮する余地はなく、この説は否定されている。また、この工法はログハウスの丸太組み工法とほぼ同様であることから、『日本最古のログハウス』と称されることもある。
現存する奈良時代の倉庫としてはもっとも規模が大きく、また、奈良時代の「正倉」の実態を伝える唯一の遺構として、建築史的にもきわめて価値の高いものである。
校倉造の宝庫は長年、宝物を守ってきたが、1952年に鉄筋コンクリート造の東宝庫、1962年には同じく鉄筋コンクリート造の西宝庫が完成し、翌1963年、宝物類はそちらへ移された。現在、宝物の大部分は西宝庫に収納、東宝庫には修理中の品や、西宝庫に収納スペースのない、大量の染織品が収納されている。勅封はこの宝庫に施されている。
興福寺

興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある、南都六宗の一つ、法相宗の大本山の寺院である。南都七大寺の一つに数えられる。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。南円堂は西国三十三箇所第9番札所である。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。
起源と歴史

創建
藤原氏の祖である藤原鎌足(614年-669年)夫人の鏡王女(かがみのおおきみ)が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、天智天皇8年(669年)山背国(山城国)山階(京都市山科区)に創建した山階寺(やましなでら)が当寺の起源である。壬申の乱のあった天武天皇元年(672年)、山階寺は藤原京に移り、地名(高市郡厩坂)をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。

和銅3年(710年)の平城遷都に際し、鎌足の子息である藤原不比等(659年-720年)は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し、「興福寺」と名付けた。この710年が実質的な興福寺の創建年といえる。中金堂の建築は平城遷都後まもなく開始されたものと見られる。
その後も、天皇や皇后、また藤原家によって堂塔が建てられ整備が進められた。不比等が没した養老4年(720年)には「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ、元来、藤原氏の私寺である興福寺の造営は国家の手で進められるようになった。

南都北嶺
興福寺は奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、特に摂関家藤原北家との関係が深かったために手厚く保護された。平安時代には春日社の実権をもち、大和国一国の荘園のほとんどを領して事実上の同国の国主となった。その勢力の強大さは、比叡山延暦寺とともに「南都北嶺」(なんとほくれい)と称された。寺の周辺には子院と称する多くの付属寺院が建てられ、最盛期には百か院以上を数えたが、中でも天禄元年(970年)定昭の創立した一乗院と寛治元年(1087年)隆禅の創立した大乗院は皇族・摂関家の子弟が入寺する門跡寺院として栄えた。
鎌倉・室町時代には幕府は大和国に守護を置かず、興福寺がその任に当たる。文禄4年(1595年)の検地では、春日社興福寺合体の知行として2万1千余石とされた。

平重衡の兵火による焼失
興福寺は、創建以来たびたび火災に見まわれたが、その都度再建を繰り返してきた。中でも治承4年(1180年)、源平の争いの最中、平重衡の兵火による被害は甚大であった(南都焼討)。 東大寺とともに大半の伽藍が焼失した。この時、興福寺再興に奔走したのは回禄直後に別当職に就いた信円と解脱上人貞慶であった。現存の興福寺の建物はすべてこの火災以後のものである。なお仏像をはじめとする寺宝類も多数が焼失したため、現存するものはこの火災以後の鎌倉復興期に制作されたものが多い。興福寺を拠点とした運慶ら慶派仏師の手になる仏像もこの時期に数多く作られている。
江戸時代の享保2年(1717年)の火災の時は、時代背景の変化もあって大規模な復興はなされず、この時焼けた西金堂、講堂、南大門などはついに再建されずじまいであった。
廃仏毀釈による破壊
明治元年(1868)に出された神仏分離令は、全国に廃仏毀釈の嵐を巻き起こし、春日社と一体の信仰が行われていた興福寺は直接打撃をこうむった。子院はすべて廃止、寺領は没収され、僧は春日社の神職となり、境内は塀が取り払われ、樹木が植えられて、奈良公園の一部となってしまった。一時は廃寺同然となり、五重塔、三重塔さえ売りに出る始末だった。

行き過ぎた廃仏政策が反省されだした1881年(明治14年)、ようやく興福寺の再興が許可された。1897年(明治30年)、文化財保護法の前身である「古社寺保存法」が公布されると、興福寺の諸堂塔も修理が行われ、徐々に寺観が整備されて現代に至っている。 しかし、興福寺に塀が無く公園の中に寺院がある状態、「信仰の動線」が欠落していると称される状態は、このとき残された傷跡である。
春日大社

春日大社(かすがたいしゃ)は、奈良県奈良市の奈良公園内にある神社である。旧称春日神社。式内社(名神大社)、二十二社の一社で、旧社格は官幣大社。全国にある春日神社の総本社である。
藤原氏の守護神である武甕槌命と経津主命、祖神である天児屋根命と比売神を祀る。四神をもって藤原氏の氏神とされ、春日神と総称される。武甕槌命が白鹿に乗ってやってきたとされることから、鹿が神使とされる。
歴史

奈良・平城京に遷都された710年(和銅3年)、藤原不比等が藤原氏の氏神である鹿島神(武甕槌命)を春日の御蓋山に遷して祀り、春日神と称したのに始まる。社伝では、768年(神護景雲2年)に藤原永手が鹿島の武甕槌命、香取の経津主命と、枚岡神社に祀られていた天児屋根命・比売神を併せ、御蓋山の麓の四殿の社殿を造営したのをもって創祀としている。ただし、近年の境内の発掘調査により、神護景雲以前よりこの地で祭祀が行われていた可能性も出てきている。
藤原氏の隆盛とともに当社も隆盛した。平安時代初期には官祭が行われるようになった。当社の例祭である春日祭は、賀茂神社の葵祭、石清水八幡宮の石清水祭とともに三勅祭の一つとされる。850年(嘉承3年)には武甕槌命・経津主命が、940年(天慶3年)には、朝廷から天児屋根命が最高位である正一位の神階を授かった。延喜式神名帳には「大和国添上郡 春日祭神四座」と記載され、名神大社に列し、月次・新嘗の幣帛に預ると記されている。
藤原氏の氏神・氏寺の関係から興福寺との関係が深く、813年(弘仁4年)、藤原冬嗣が興福寺南円堂を建立した際、その本尊の不空絹索観音が、当社の祭神・武甕槌命の本地仏とされた。神仏習合が進むにつれ、春日大社と興福寺は一体のものとなっていった。11世紀末から興福寺衆徒らによる強訴がたびたび行われるようになったが、その手段として、春日大社の神霊を移した榊の木(神木)を奉じて上洛する「神木動座」があった。
明治4年に春日神社に改称し、官幣大社に列した。1945年(昭和21年)12月に現在の春日大社に改称した。
施設

本殿
春日造の本殿が四殿並んで建っており、第一殿に武甕槌命、第二殿に経津主命、第三殿に天児屋根命、第四殿に比売神が祀られている。拝殿はなく、一般の参拝者は幣殿の前にて、初穂料を納めて特別拝観を申し込んだ場合は本殿前の中門から参拝することになる。
摂末社
広大な境内には多数の摂末社がある。本殿の東側には比売神の御子神として天押雲根命を祀る摂社若宮神社があり、若宮神社、夫婦大国社を始めとする本殿東側の十二社は、「福の神十二社めぐり」として古来より崇敬を集めている。
本殿廻廊の西南隅には、摂社・榎本神社(式内小社)がある。榎本神社の祭神は当地の地主神であり、元々この地で祀られていた神であるとされる。現在の祭神は猿田彦大神であるが、中世までは巨勢姫明神とされていた。
元興寺

元興寺 (がんごうじ)は、奈良市にある、南都七大寺の1つに数えられる寺院。蘇我馬子が飛鳥に建立した、日本最古の本格的仏教寺院である法興寺がその前身である。法興寺は平城京遷都に伴って飛鳥から新都へ移転し、元興寺となった(ただし、飛鳥の法興寺も元の場所に残り、今日の飛鳥寺となっている)。奈良時代には近隣の東大寺、興福寺と並ぶ大寺院であったが、中世以降次第に衰退して、現在は次の2つの寺院に分かれている。
(1) 奈良市中院町所在の元興寺。1977年までは「元興寺極楽坊」と称していた。西大寺の末寺で、宗派は真言律宗に属する。本尊は智光曼荼羅である。
(2) 奈良市芝新屋町所在の元興寺。東大寺の末寺で、宗派は華厳宗に属する。本尊は十一面観音である。
奈良市中院町の元興寺は「古都奈良の文化財」の一部として、世界遺産にも登録されている。上記2つの元興寺は、もともと同じ寺院の一部であるので、本項ではまとめて述べることとする。
起源と歴史

現在、「史跡元興寺」として指定されている地域は 奈良市中院町の「元興寺極楽坊」、同市芝新屋町の「元興寺(塔跡)」同市西新屋町の「元興寺小塔院跡」の3か所である。これらはいずれも、蘇我馬子が6世紀末、飛鳥に建立した日本最古の本格的寺院、法興寺(現在の飛鳥寺)の後身である。
和銅3年(710年)の平城京遷都に伴って、飛鳥にあった薬師寺、厩坂寺(のちの興福寺)、大官大寺(のちの大安寺)などは新都へ移転した。法興寺は養老2年(718年)平城京へ移転したが、飛鳥の法興寺も廃止はされずに元の場所に残った。通常、飛鳥にある寺を「法興寺」、平城京の方の寺を「元興寺」と称している。「法興」も「元興」も、日本で最初に仏法が興隆した寺院であるとの意である。
奈良時代の元興寺は三論宗と法相宗の道場として栄え、東大寺や興福寺と並ぶ大伽藍を誇っていた。寺域は南北4町(約440メートル)、東西2町(約220メートル)と南北に細長く、興福寺の南にある猿沢池の南方、今日「奈良町(ならまち)」と通称される地区の大部分が元は元興寺の境内であった。猿沢池南東側にある交番のあたりが旧境内の北東端、奈良市音声館(奈良市鳴川町)のあたりが旧境内の南西端にあたる。

奈良においては東大寺、興福寺が勢力を増す一方で、元興寺は平安時代後半あたりから徐々に衰退していった。11世紀前半の「堂舎損色検録帳」という史料によると、金堂をはじめとする元興寺の伽藍は、この頃には荒れ果てて見る影もなかったという。元興寺には奈良時代の学僧・智光が描かせた阿弥陀浄土図(智光曼荼羅)があったが、平安末期の末法思想の流行や阿弥陀信仰の隆盛とともにこの曼荼羅が信仰を集めるようになった。曼荼羅を祀る堂は「極楽坊」と呼ばれて、次第に元興寺本体とは別の寺院として発展するようになった。これが現在、奈良市中院町にある元興寺、通称元興寺極楽坊である。現存する元興寺極楽坊の本堂と禅室は、奈良時代に智光をはじめとする僧たちが住んでいた僧房を鎌倉時代に改築したものである。
室町時代の宝徳3年(1451年)、土一揆のあおりで元興寺は炎上し、五重塔などはかろうじて残ったが、金堂など主要堂宇や智光曼荼羅の原本は焼けてしまった。この頃を境に、寺は智光曼荼羅を祀る「極楽院」、五重塔を中心とする「元興寺観音堂」、それに「小塔院」の3つの寺院に分裂した。極楽院は奈良西大寺の末寺となって真言律宗寺院となり、中世以降は智光曼荼羅、弘法大師、聖徳太子などの民間信仰の寺院として栄えた。
一方、極楽院の南にある「元興寺観音堂」の方は東大寺の末寺となり、五重塔を中心とする寺院であったが、室町時代の火災に焼け残った創建遺構の五重塔と観音堂は、江戸時代末期の安政6年(1859年)についに焼失し、以後は「元興寺」の寺号は継ぐものの衰退している。
極楽院は明治以降は荒れ果て、現在国宝に指定されている本堂も1950年ころまでは床は落ち、屋根は破れて「化け物が出る」と言われたほどの荒れ方であった。第二次世界大戦中の1943年に極楽院の住職となった辻村泰圓は戦災孤児のための社会福祉事業に尽力するかたわら、境内の整備や建物の修理を進めた。1962年には辻村により境内に財団法人元興寺仏教民俗資料研究所が設立され(1978年に元興寺文化財研究所と改称)、1965年には寺宝を収蔵展示する収蔵庫が完成するなど、徐々に整備が進んだ。元興寺仏教民俗資料研究所は、本堂解体修理中に屋根裏から発見された数万点の庶民信仰資料(板塔婆など)を研究することを当初の目的として設立された。極楽院は1955年に「元興寺極楽坊」と改称、さらに1977年に「元興寺」と改称されている。
薬師寺

薬師寺(やくしじ)は、奈良県奈良市西ノ京町に所在する寺院であり、興福寺とともに法相宗の大本山である。南都七大寺のひとつに数えられる。本尊は薬師如来、開基(創立者)は天武天皇である。1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。現・管主は安田暎胤である。
歴史

薬師寺は7世紀末、飛鳥(奈良県橿原市城殿(きどの)町)の地に創建され、平城遷都後の8世紀初めに現在地に移転したものである。ただし、飛鳥の薬師寺も10世紀頃までは引き続き存続していたと見られる。
創建
『日本書紀』によれば、薬師寺は天武天皇9年(680年)、天武天皇が後の持統天皇である鵜野讃良皇后(うののさららこうごう)の病気平癒を祈願し、飛鳥の地に創建したものである。薬師寺東塔の屋上にある相輪支柱に刻まれた「東塔さつ銘」(「さつ」は木扁に「察」)にも同趣旨の記述がある。しかし、天武天皇は寺の完成を見ずに朱鳥元年(686年)没し、伽藍整備は持統天皇、文武天皇の代に引き継がれた。持統天皇2年(688年)、薬師寺にて無遮大会(むしゃだいえ)という行事が行われたことが『書紀』に見え、この頃までにはある程度伽藍が整っていたものと思われる。『続日本紀』によれば、文武天皇2年(698年)には寺の造営がほぼ完成し、僧を住まわせている。この、飛鳥の薬師寺跡は大和三山の畝傍山と香久山の中間にあたる橿原市城殿町に残り、「本薬師寺(もとやくしじ)跡」として特別史跡に指定されている。
平城移転
その後、和銅3年(710年)の平城京への遷都に際して、薬師寺は飛鳥から平城京の六条大路に面した現在地に移転した。移転の時期は長和4年(1015年)成立の『薬師寺縁起』が伝えるところによれば養老2年(718年)のことであった。『扶桑略記』天平2年(730年)3月29日条に、「始薬師寺東塔立」とあり、東塔(三重塔)が完成したのがその年のことで、その頃まで造営が続いていたものと思われる。
なお、平城京への移転後も、飛鳥の薬師寺(本薬師寺)はしばらく存続していた。史料や発掘調査の結果からは平安時代中期、10世紀ころまでは存続していたようだが、後に廃寺となった。本薬師寺跡には金堂・東塔の礎石、西塔の心礎が残り、堂塔の平面規模、金堂と塔との距離などが平城薬師寺とほぼ等しいことがわかっている。
平城京の薬師寺は天禄4年(973年)の火災と享禄元年(1528年)の筒井順興の兵火で多くの建物を失った。現在、奈良時代の建物は東塔を残すのみである。

移建・非移建論争
平城京の薬師寺にある東塔や本尊薬師三尊像が本薬師寺から移されたものか、平城京で新たにつくられたものかについては明治時代以来論争がある。21世紀の現在では、東塔は平城京での新築、本尊は本薬師寺からの移座とするのが、ほぼ通説となっているが、論争は完全に決着したわけではない。
11世紀成立の『薬師寺縁起』に引用される奈良時代の古縁起に「薬師寺には塔が4基あり、うち2基は本寺にある」という趣旨の記載があり、ある時期までは平城と飛鳥の両薬師寺にそれぞれ2基の塔があったと解釈されることから、町田甲一らはこれを非移建説の根拠の1つとしている。現存する東塔に、他所から解体移築した痕跡の見られないことからも、東塔については『扶桑略記』の記述どおり、平城移転後の新築と見る説が有力である。ただし、平城薬師寺の境内からは本薬師寺から出土するのと同様の古い様式の瓦も出土しており、平城薬師寺の伽藍が全て新築で、飛鳥からの移築は全くなかったとまでは言い切れない。
発掘調査の結果、平城薬師寺の廻廊は当初単廊(柱が2列)として計画されたものが、途中で複廊(柱が3列、通路が2列)に設計変更されたことが判明している。このことから、当初は本薬師寺の建物を一部移築しようとしていたものを、途中で計画変更したのではないかとする説もある。
金堂本尊薬師三尊像については、『日本書紀』に見える、「持統天皇2年(688年)、薬師寺にて無遮大会(むしゃだいえ)が行われた」との記述を重視し、この年までには造立されて、後に平城薬師寺に移されたとする説が有力である。ただし、主に様式の面から平城移転後の新造とする 説もなお根強い。
金堂・西塔などの再建
20世紀半ばまでの薬師寺には、江戸時代末期仮再建の金堂、講堂がわびしく建ち、創建当時の華麗な伽藍をしのばせるものは焼け残った東塔だけであった。1960年代以降、名物管長として知られた高田好胤(たかだこういん)が中心となって写経勧進による白鳳伽藍復興事業が進められ、1976年に金堂が再建されたのをはじめ、西塔、中門、回廊、大講堂などが次々と再建された。
唐招提寺

唐招提寺(とうしょうだいじ)は、奈良市五条町にある鑑真ゆかりの寺院。南都六宗の1つである律宗の総本山である。本尊は廬舎那仏、開基(創立者)は鑑真である。井上靖の小説『天平の甍』で広く知られるようになった中国・唐出身の僧鑑真が晩年を過ごした寺であり、奈良時代建立の金堂、講堂をはじめ、多くの文化財を有する。
起源と歴史
『続日本紀』等によれば、唐招提寺は唐僧・鑑真が天平宝字3年(759年)、故・新田部親王(にいたべしんのう、天武天皇第7皇子)の旧宅跡を朝廷から譲り受け、寺としたものである。寺名の「招提」は、サンスクリット由来の中国語で、元来は「四方」「広い」などの意味を表わす語であったが、「寺」「院」「精舎」「蘭若」などと同様、仏教寺院(私寺)を指す一般名詞として使われていた。つまり、本寺の寺名の由来としては、「唐僧である鑑真和上のための寺」というような意味合いであるとされている。

鑑真の渡日と戒律の伝来
鑑真(688年 - 763年)の生涯については、日本に同行した弟子の思託が記した『大和上伝』、それをもとにした淡海三船(おうみのみふね)の『唐大和上東征伝』、井上靖の『天平の甍』などに詳しい。
鑑真は仏教者に戒律を授ける導師「伝戒の師」として日本に招請された。「戒律」とは「規範」「きまり」といった意味で、仏教者が日常生活上守らなければならない事柄であり、一般の仏教信者に授ける「菩薩戒」と、正式の僧に授ける「具足戒」とがある。出家者が正式の僧となるためには、「戒壇」という施設で、有資格者の僧から「具足戒」を受けねばならないが、当時(8世紀前半)の日本には正式の戒壇はなく、戒律を授ける資格のある僧も不足していた。天平5年(733年)、遣唐使とともに渡唐した留学僧の普照と栄叡(ようえい)は、日本に正式の戒壇を設立するため、しかるべき導師を招請するよう、朝廷からの命を受けていた。彼らが揚州(現・江蘇省)の高僧鑑真に初めて会ったのは西暦742年のことであった。鑑真は渡日を承諾するが、当時の航海は命がけで、鑑真は足掛け12年の間に5回も渡航に失敗、5回目の航海では中国最南端の海南島まで流され、それまで行動をともにしてきた栄叡を失い、自らは失明するという苦難を味わった。753年、6回目の渡航でようやく来日に成功するが、この時も国禁を犯し、日本の遣唐使船に便乗しての渡航であった。鑑真は当時すでに66歳になっていた。
天平勝宝5年(753年)12月、薩摩(琉球ともいう)に上陸した鑑真は、翌天平勝宝6年(754年)2月、ようやく難波津(大阪)に上陸し、同年、東大寺大仏殿前で、聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇らに菩薩戒を授けた。日本で過ごした晩年の10年間のうち、前半5年間を東大寺で過ごした後、天平宝字3年(759年)、前述のように、今の唐招提寺の地を与えられた。
伽藍の整備
唐招提寺の寺地は平城京の右京五条二坊に位置した新田部親王邸跡地で、広さは4町であった。境内の発掘調査の結果、新田部親王邸と思われる前身建物跡が検出されている。また、境内から出土した古瓦のうち、単純な幾何学文の瓦(重圏文軒丸瓦と重弧文軒平瓦の組み合わせ)は、新田部親王邸のものと推定されている。寺内に現存する2棟の校倉造倉庫のうち、経蔵は新田部親王宅の倉庫を改造したものと思われるが、他に新田部親王時代の建物はない。
『招提寺建立縁起』(『諸寺縁起集』所収)に、寺内の建物の名称とそれらの建物は誰の造営によるものであるかが記されている。それによると、金堂は鑑真の弟子でともに来日した如宝(? - 815年)の造営、食堂(じきどう)は藤原仲麻呂家の施入(寄進)、羂索堂(けんじゃくどう)は藤原清河家の施入であった。また、講堂は、平城宮の東朝集殿を移築改造したものであった。金堂は8世紀後半の宝亀年間(770 - 780年)の建築と推定され、この推定通りとすれば鑑真の没後に建立されたものである。
伽藍の造営は鑑真の弟子の如宝、孫弟子の豊安(ぶあん)の代にまで引き継がれた。平安時代以後、一時衰退したが、鎌倉時代の僧・覚盛(かくじょう、1193-1249)によって復興された。
平城宮

平城宮(へいじょうきゅう)は710年に遷都した奈良の都平城京の大内裏。平城京の北端に置かれ、天皇の住まいである内裏と、儀式を行う朝堂院、役人が執務を行う官衙(役所)から成り、約120haを占めていた。


平安京遷都後は放棄され、農地となっていた。明治時代に建築史家、関野貞が田んぼの中にある小高い芝地が大極殿(第二次)の基壇であることを発見、平城宮址(へいじょうきゅうし)は1922年に国の史跡に指定された(後に特別史跡)。のちに址(し・あと)が常用漢字外であるため平城宮跡(へいじょうきゅうせき)と書かれるようになる。

春日山原始林

春日山原生林(かすがやまげんせいりん)は、春日大社の山として神聖視され、樹木伐採が長らく(千年以上に渡り)禁じられてきたため、森林が極相に達した原生林が広がっている地域である。
市街地(奈良市)に近接して原生林が存在することは極めて珍しく、保護の対象にするべきとして、特別天然記念物に指定されており、うち春日山の照葉樹林は国の名勝にも指定されている。また、古都奈良の文化財の一部として世界遺産にも指定されている。

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